毎朝5時から「ピアノ・書道・英語学習」
誰が弾くのかショパンの調べ
東京都江戸川区にある特別養護老人ホーム、アゼリー江戸川。ある利用者の家族から届いた葉書に、こんな短歌が記されていた。
「ショパンの調べ」は、館内放送で流していたものではない。施設長の磯野正が、実際にピアノを弾いていたのだ。それだけなら特別驚くべきことではないが、なんと磯野は御年86歳なのである。
アゼリー江戸川の全入居者85人の平均年齢は87.5歳、うち33人が85歳以下だから、入居者の約4割は磯野よりも“若い”ことになる。
「私は毎朝5時にはホームに来まして、約2時間、ピアノと書道と英語の勉強をしています。経営学の本などもよく読みますね。コロナ禍の前は、入所者全員に朝の挨拶をして、握手をして回っていたんですよ」
小柄でいかにも好々爺然とした雰囲気の磯野だが、淡々と語る内容のすべてが、一般的な高齢者のイメージから逸脱している。この“スーパー高齢者”はいかにして誕生し、いかにして気力、体力を維持しているのか?
その秘密は、意外なところにあった。
「負けるなんて考えたこともなかったから、悔しくて悔しくて」
磯野は昭和10年、千葉県夷隅郡の農家に生まれている。7人兄弟の下から二番目。小さい頃から田植や麦踏などの農作業を手伝った。
小学校1年生の12月に太平洋戦争が始まり、5年生の夏に終戦を迎えた。
「1年生の時に先生が『戦争が始まったよ』と言いまして、田舎でしたが空襲があると授業が終わりになって家に帰ったりしました。飛行機の機関銃で撃たれるから、並んで帰っちゃダメだよなんて言われましてね」
敗戦時の感想が、興味深い。
「日本が負けるなんて考えたこともなかったから、悔しくて悔しくて、もう一回戦争が始まらないかと思ったほどでした」
昭和32年に千葉大学を卒業して、小学校の教諭になった。初任校は浦安市立浦安小学校。団塊の世代が小学生だった時代である。
「私は優しい先生だったと思いますよ。昼夜問わず子供にのめり込んでいましたからね」
浦安小には10年勤めたが父母からの信頼が厚く、近年まで父母の同窓会が行われていたというからよほど人気があったのだろう。