130年以上の歴史を持ち、例年120万人を動員する木下サーカス。その最年長社員は47歳の空中ブランコ芸人だ。コロナ禍で4カ月の休演となり、いまも客席数は制限されている。そんな逆風下でも「将来の不安はない」と言い切る。彼はなぜ空中ブランコに乗り続けるのか。連載ルポ「最年長社員」、第12回は「サーカス団員」——。
中園栄一郎さん
撮影=門間新弥

バーをつかんで飛び出した瞬間、もう誰も助けてくれない

初めて空中ブランコの台に立ったとき、胸に生じたのは何とも言えない「孤独」だった――。今から25年ほど前、まだ20代だった頃のその日を思い返しながら、中園栄一郎さんは懐かしそうに言った。

サーカスの大トリを務める花形の空中ブランコ。「フライヤー」と呼ばれる演技者は約12メートルの梯子を登り、不安定な飛行台の上に立つ。観客席に誰もいない練習中の大天幕は、水を打ったように静まり返っていた。自分を受け止めるキャッチャーが、数メートル向こう側に見えた。

「ああ、俺はここから飛び出して、あの人の手をつかまなければならないんだ」

そう思うと、繰り返し地上で練習してきたことが、頭の中から全て消えてしまうようだったそうだ。

「それこそ、お客さんがいる本番の初舞台のときは、高揚感や不安、武者震いするような気持ちが混ざり合って、頭が真っ白になったものです。ブランコのバーをつかんで飛び出した瞬間、もう誰も助けてくれない。これが学校のクラブや試合であれば、失敗して泣いたとしても、その悔しさもいずれは良い思い出になるかもしれません。でも、お客さんの前で飛ぶのは全く違う緊張感があるんです。一度飛び出してしまったら失敗を見せられないので、最初の頃はすごいプレッシャーでしたね」

撮影=門間新弥
木下サーカスの名物である「奇跡のホワイトライオン」。世界に300頭しかいないという。

福山市の飲食店で「フリーターのような生活」を送っていたが…

12人で構成される木下サーカスの空中ブランコ・チームの中で、彼の今の役割はフライヤーを受け止める「キャッチャー」だ。現在、47歳。ここ最近、舞台に立っていた60代の芸人たちが相次いで引退したため、木下サーカス全体でも最年長だ。舞台に立つと同時に、若手の指導者も務めている。

1972年に奈良県の田原本町に生まれた彼は、11歳のときに器械体操を始めた。中学・高校では体操部に所属し、全国大会やインターハイにも出場。当時は大学に進学して体育の教師になる夢を抱いていた。だが、家は3人の子供のいる母子家庭で、家計のことを思うと、進学の希望はとても口にはできなかったという。

高校卒業後、広島県福山市のスポーツ器具の製造会社に就職するも、職場の雰囲気に馴染めず1年ほどで退職した。その頃は福山市の飲食店で「フリーターのような生活」を送りながら、次のような思いを抱えていた、と彼は振り返る。

「地域の子供たちに体操を教えたり、競技大会に出場したりした時期もあったのですが、社会人としての日々の中で体操はすっかり趣味になってしまっていました。それでも小中高とずっと打ち込んできた競技だっただけに、まだまだ体操にかかわっていたいという思いが、どうしても消えなかったんです」