大地震が襲った2日後、3月13日午後4時過ぎ――。イタバシニット社長の吉田康宏は社員1人を伴い、東京・渋谷の本社から縫製工場のある宮城県気仙沼を目指して、車を出発させた。途中、浦和の自宅で妻を乗せ、国道4号線を北へ北へと向かう。妻を同乗させたのは、「運転手が3人いれば、どんな大渋滞にぶつかっても大丈夫」と考えたからだ。
車は日産の高級車フーガ。車内には、溢れんばかりの救援物資が積み込まれている。食料品、水、携帯用のガスコンロ、使い捨てカイロ、トイレットペーパー、毛布。さらに、妻が用意した段ボール1箱分の生理用品もあった。気仙沼工場の従業員は130人、そのほとんどが女性なのだ。
地震発生直後から気仙沼工場とは連絡が取れていない。携帯電話、固定電話は、この2日間不通のままだ。メールも役に立たなくなっている。本社と工場の連絡に使っていたテレビ電話もつながらない。緊急用に用意していた従業員の連絡先に本社から電話を入れ続けたが、これもすべて不通だった。
地震が起きてから、気仙沼の情報はテレビでしかわからなかった。津波に襲われて重油タンクが湾内を流れている映像を見たときは目を疑った。
夜になると、火災の発生していた気仙沼市内が赤々と映し出された。工場は、市の中心部からは南に8キロと離れているが、海岸からは1キロのところにある。テレビも、そこまでは映してくれない。
「どうなっているのだ。工場は残っているのか。従業員は無事なのか」