中国の戦国時代、過酷な生き残り競争がエスカレートするなか、人々は必死の弁論や説得で、自分の生き残りや、組織の利益を図ろうとした。

その記録を集大成したのが、今回から取り上げる『戦国策(せんごくさく)』。時代名称の「戦国」の由来ともなったことでも知られている。

この古典は、一般的知名度は高くはないが、隠れた傑作に他ならない。なぜなら、現代のわれわれが直面する組織や対人交渉の問題と、そのまま斬り結ぶ智恵の数々が、そこには収められているからだ。

今回ご紹介するのは、古今変らぬ上司と部下の関係を抉ったこんな話だ――。

時は、紀元前260年、強国秦と趙との間で起こった「 長平(ちょうへい)の戦い」と呼ばれる一大決戦から、ことは始まる。この戦い、名将白起(はくき)を擁する秦が大勝利を収め、負けた趙側は捕虜40万人が生き埋めにされるという大打撃を被った。

大勝利に気をよくした秦の昭王は、1年後、さらに趙を討とうと考える。ところが肝心の白起が反対にまわる。彼の言い分はこうだった。

「確かに秦は、長平の戦いで勝ちましたが、そのために財力も底をつきました。一方で趙の方は、負けた悲しみを国中で分け合い、一致協力して国力の増強に努めています。また他の諸国ともよしみを通じて、秦に備えています。これではいくら攻めても成果は上がらず、失敗すれば秦は天下から軽んじられるでしょう」

この絵柄は、現代のビジネスに置き換えるとこんな感じだ。

優秀な現場責任者の手腕で、ある事業が大成功を収めたとする。気を良くした社長は、似た事業をさらに立ち上げようとするが、「前と状況が違う」と現場責任者が強硬に反対する――。

しかし、秦の昭王は、

「もう軍は動員してしまった、やめられぬ」

と侵攻を強行してしまった。病気を理由に参加を辞退した白起にかわり、王陵(おうりょう)や王こつといった将軍が指揮をとるが、秦軍は苦戦に陥って5つの軍団を失ってしまう。さらに趙の都を包囲しても攻略できず、しばしばゲリラ戦に敗れてしまった。

この成り行きに激怒した昭王は、白起のもとを訪れ、無理矢理病床から起こすと、

「病気であろうが関係ない、寝ながらでもよいから指揮をとれ。成果をあげればたっぷり褒美をとらす。拒むなら、ただでは済まぬぞ」

すると白起は、こう答えた。

「拒めば、刑罰を受けるのはわかっていますが、それを承知で申し上げます。どうか趙を討つのはおやめになって、人民を休養させ、諸侯の動静をよく観察してください。我が国に平伏してくる者は手なづけ、驕れる者は討ち、無道な者は滅ぼせばよいのです。そのうえで諸侯に号令すれば、天下を平定することができます。守りの堅い趙を急いで討つ必要がどこにありましょう。<一臣のために屈して天下に勝つ>とはこれをいうのです。もし私の意見を聞かずに趙を討ち、わたしを罪に陥れるなら、<一臣に勝って天下のために屈する>者でしかありません。家臣に勝って威厳を示すのと、天下に勝って声望を高めるのとでは、どちらがまさっていますか。私にとって敗軍の将となるより、誅殺される方がまだましです。どうか私の意とするところをお汲み取りください」

昭王は何も言わず立ち去っていった――。

現代でも、上司と部下との関係が、この話に似た形でこじれてしまうことがある。こんなとき、部下の側は、<一臣のために屈して天下に勝つ>と言い切れる信念と勇気を持っているのか。上司の方は、それを聞き容れる度量があるのか。この両極が試されるのかもしれない。