物事には、なべて程良い塩梅がある。しかし、それを自覚し、うまく留まるというのは、至難の業だ。
現代でも、株価の大暴落などのさいに、こんな後悔の弁が飽きもせず繰り返されている。
「欲をかかず、あの時売り抜けていれば、大損しなくて済んだのに」
もう少し行けるだろう、まだ大丈夫だろうという気持が、景気後退や金融過熱のサインを見過ごさせてしまうわけだ。
また、お酒を飲んでいて、ついつい飲みすぎ、二日酔いで大いに後悔するというのも、よくあることだ。
では、どうすれば「程良い塩梅」を見つけ、そこに踏みとどまることができるのだろう。『戦国策』にはこんな話がある。
楚という国に昭陽(しょうよう)という人物がいた。軍隊を率いて魏の軍勢を破り、大将を殺して城を8つも攻略した。彼は勢いに乗って、斉の国にも兵を向けようとする。
これはたまらない、と斉の王は遊説家の陳軫(ちんしん)を差し向けて、昭陽に進軍を思いとどまらせようとした。
陳軫は、昭陽との会見にのぞむと、まず戦勝を祝ってこう述べた。
「楚では、敵を破って大将を殺すと、どれほどの地位が手に入るのですか」
「そうだな、官職も爵位も国のナンバー3くらいが手に入るだろう」
「家臣にとって、それよりも貴い地位というのはあるのでしょうか」
「国のナンバー2である宰相の地位だけだろう」
「宰相といえば、顕職ですね。しかし、楚の王も2人は宰相を置けません。
こんな喩え話をご存知でしょうか。楚で祝い事があり、使用人にも酒が大きな盃で振舞われました。使用人たちは、こんな相談をします。
『みなで飲むには、酒が足りない。しかし、一人で飲むには充分な量だ。どうだい、地面に蛇を画く競争をしようじゃないか。一番先に終わった者が酒をすべて飲むことにしよう』
競争が始まり、一人が最初に画き終わりました。彼は酒を右手に持って飲もうとし、左手ではなおも画き足します。
『おれは、足までいけるぞ』
すると、二番目に蛇を画き終えた男が、その酒を奪い取るとこう言いました。
『蛇に足はないぞ。足を画いたらもう蛇ではないだろう』
そして、その酒を奪い取って飲んだのです。蛇の足を画いた者(蛇足をなす者)は、結局、酒を失ってしまいました。
いま、あなたも楚の将軍として魏に勝利し、敵将を殺して8つも城を奪いました。それなのに鋭鋒を緩めず、今度は斉を攻めようとしています。
確かに斉はあなたを恐れていますが、あなた自身の功名も、これで充分なのではないでしょうか。なぜならこれ以上勝っても、宰相にはなれません。戦いに勝って調子に乗り、引くことを知らないと、内部から足を引っ張られて身の破滅を招き、地位も危うくなるもの。それは蛇に足を画くようなものではないでしょうか」
昭陽はもっともだと思い、楚の兵を引いて去っていった――。
現代でも使う「蛇足」という成語の出典となった一節だ。
ここでの教えを一言に要約するなら、何か事を為す際には、「蛇」によって象徴される「物事の身の丈」を、事前にきちんと理解しておけ、ということに他ならない。
先ほどの株の話でいえば、百貨店などで驚くような高額商品が飛ぶように売れる、といったニュースが流れたなら、それは消費者が「蛇」に「足」を画いている瞬間、過熱景気が大暴落に転ずる予兆、といった感じに喩えられるだろう。