松平容保(かたもり)は、言わずと知れた会津藩最後の藩主。会津藩は、桑名藩と並び、佐幕の中心的存在だった。

天保6年(1835)生まれの容保は、叔父で会津藩主の松平容敬(かたたか)の養子となり、数え17歳で跡を嗣ぎ、激動の幕末に飲み込まれていく。

容保が歴史に名を残すことになるきっかけは、京都守護職就任だった。

大老井伊直弼(なおすけ)が桜田門外の変で斃れたのち、一橋慶喜(よしのぶ:のち徳川慶喜)が将軍後見職に、越前福井藩主松平春嶽(しゅんがく)が政事総裁職になると、推されるかたちで新設の京都守護職に任命される。

病弱だった容保は、はじめ就任を固持した。京都に赴任しつづける体力の心配もあったし、会津藩の財力が疲弊しかねない不安もあり、家老の西郷頼た のも母も強硬に反対した。

けっきょく容保は、春嶽らにも勧められて、京都守護職に就任するが、反対したことが原因で頼母は一時的に家老職を解かれることになる(のち家老に復職する)。

容保は、会津藩兵を率いて上洛し、孝明天皇に拝謁して、正直でまっすぐな性格を気に入られる。いわゆるイケメンで、朝廷での評判も上々だった。以後は、上洛した14代将軍徳川家茂(いえもち)を警備し、尊王攘夷派を弾圧し、京都の治安維持に努めることになる。

だが容保には、「諸刃の剣」ともいうべき存在があった。近藤勇を局長、土方歳三を副長とする新選組だ。新選組は、一般には幕府の「狗(いぬ)」のように言われているが、正式には、会津藩主、京都守護職、松平容保の配下だった。

新選組が活躍し、尊王攘夷派を厳しく弾圧すればするだけ、京都における会津藩の評判は落ちていった。

やがて、気に入られていた孝明天皇が崩御し、禁門の変後の長州征伐のさなかに家茂も大坂で死去。15代将軍となった慶喜が大政を奉還して幕府が消滅すると、自然に京都守護職も廃止された。

容保率いる会津藩兵は、旧幕府の中心として、慶喜、桑名藩兵らとともに鳥羽・伏見で戦って敗北。慶喜らとともに江戸、さらに領国の会津に帰国した。

容保は家督を養子の喜徳(のぶのり)にゆずって謹慎するが、朝敵となった会津藩などの赦免嘆願をきっかけに奥羽越列藩同盟が結成され、やがて会津戦争に突入していくことになる。

会津若松城に籠城した容保は、最後は降服勧告に応じ、籠城を強硬しようとする佐川官兵衛らを説得した。

結果論だが、容保は貧乏くじを引かされたのだ。

もし容保が京都守護職を押しつけられなかったら、会津藩は経済的に疲弊することも多くの藩兵を失うこともなく、朝敵にもならず、奥羽越列藩同盟も結成されず、会津若松城を落とすことも、白虎隊の悲劇を生むこともなかったかもしれない。

だが、いずれも「たら」「れば」の話。

容保が偉かったのは、たとえ貧乏くじであっても、その職に就いた以上、仕事を全うしたことだ。結果、立場を失うことになろうとも、潔く受け容れつづけ、朝敵なら朝敵らしく、最後まで闘う姿勢を崩さなかった。

「滅びの美学」などと歯の浮いた言葉を使わなくとも、容保の生きざまは、結果はどうあれ、すがすがしく見える。

会津戦争後、容保は鳥取藩などに預けられたのち、東京で蟄居(ちっきょ)。嫡男の容大(かたはる)が家名存続を許され、旧会津藩士たちを連れて、極寒の旧南部藩領で斗南(となみ)藩主となった。

容保は蟄居を許され、日光東照宮の宮司を歴任し、明治26年(1893)まで生きた。享年59。いまからすれば、あまりに若い死だった。