越前福井藩主松平春嶽(しゅんがく)は、宇和島藩主伊達宗城(むねなり)、薩摩藩主島津斉彬、土佐藩主山内容堂とともに四賢侯のひとり。

数え11歳で藩主となり、元服したさい、12代将軍徳川家慶(いえよし)から一字を賜って「慶永」を諱(いみな)とした。

幼くして藩主となった春嶽を支え、藩政改革の中心となったのは、平田篤胤(あつたね)に国学を学んだ藩士中根靱負(ゆきえ:雪江)、緒方洪庵の適々斎塾(てきてきさいじゅく)で蘭方医学を学んだ橋本左内、のちに記す横井小楠(しょうなん)から財政学を学んだ三岡八郎(のち由利公正)らだった。

ペリーが黒船を率いて来航すると、はじめ春嶽は海防強化、攘夷を唱えるが、やがて開国派に転ずる。側近である中根らの意見を容れたものだった。

将軍継けい嗣し問題では、一橋(のち徳川)慶喜を推す一橋派に属して井伊直弼と対立。さらに日米修好通商条約調印に反対したため蟄居(ちっきょ)謹慎処分となった。この安政の大獄では、側近の橋本左内が刑に処される。

ライバルである井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されると復職。慶喜が将軍後見職になると同時に政事総裁職となった。

春嶽の特筆すべきところは、その開かれた姿勢にあった。

逸材と知ると、他国の熊本藩士で儒学者の横井小楠を政治顧問に迎えた。

小楠は「破約必戦論」を唱えていた。ヨーロッパのアジアヘの侵入という危機的状況を見て、「幕府は『私』の政治を捨てて『公』の政治を確立しなければならない」「幕府が結んだ不平等条約はアメリカの圧力のもとに徳川の利益のために結んだ『私』にもとづくものだから否定する」「いったん戦争覚悟で条約を破棄し、あらたに『公』の議論を立てて開国の国是を立てるべき」というものだ。

戦争をすべきだというのではなく、戦争を辞さない決意で事に臨むべきだという考え方だ。

さらに春嶽は、相手の身分に関係なく人に会った。

その典型が坂本龍馬だ。

脱藩浪士の龍馬がなぜ春嶽に会えたかは、わかっていない。

幕臣山岡鉄舟らとつきあいがあった土佐藩士間崎滄浪(まさきそうろう)が紹介状を書いたとする説、福井藩江戸屋敷で剣術を教えていた千葉定吉の子の重太郎に紹介状をもらったという説……。

龍馬と面会したさい、どんな会話が交わされたかは定かでないが、勝麟太郎(海舟)、横井小楠への紹介状を春嶽に書いてもらっているのだ。

龍馬と、土佐藩士岡本健三郎に会った春嶽は、こう書き残している。

「或日朝登城の前突然二人の士、常盤橋邸に参入して春嶽侯に面会を乞ふ。諾して面話す。(中略)此二人は坂本龍馬、岡本健三郎なり。両士の談話を聞くに勤王攘夷を熱望する厚志を吐露す。其他懇篤(こんとく)の忠告を受く、感佩(かんぱい)に堪へず。(中略)勝(海舟)、横井(小楠)に面晤仕度(めんごつかまつりたく)、侯の紹介を請求す。余諾して添書を両士に与ふ」(『春嶽手記』)

このあとも龍馬は春嶽を訪ねて大坂近海の海防策を具申するなど、その懐に飛び込んだ。

いっぽう春嶽もまた、上京してきた山内容堂に龍馬の脱藩赦免要請をしている。

また勝麟太郎の使いとして越前を訪ねてきた龍馬に、日本の海軍の礎となる勝塾のためにと1千両を与えている。

越前福井藩のため、ではなく、国際社会で生きていかなければならなくなった日本のために、なにをなすべきかを考え、熟慮断行する力が春嶽にはあった。

そのためには、側近たちの意見に耳を傾けて藩論を180度変更することも辞さず、横井小楠のように他国の者であっても招いて顧問にし、どこの馬の骨ともわからぬ坂本龍馬とも会って語らい、労を惜しまず力を貸し、金も与えた。

度量が大きいからこそ、人が寄ってきたのだ。