万延元年(1860)3月3日(新暦3月24日)、じきに桜も咲こうかという時季、江戸は大雪に見舞われていた。

この日の午前9時、登城途中だった大老井伊直弼(彦根藩主)一行が桜田門外において、水戸浪士17名と元薩摩藩士ひとりの集団に襲われた。

彦根藩士たちは雨合羽を着たうえ、雪水を防ぐため刀に柄袋までつけていたため、防戦もままならなかった。

一発の銃声を合図にするかのように、集団は直弼の駕籠に襲いかかった。駕籠に刀を突き刺し、薩摩藩士有村次左衛門が直弼の首を斬った。

俗にいう「桜田門外の変」。

井伊直弼を暗殺した動機は、日米修好通商条約の無断調印、調印に反対した公卿・大名・旗本たちへの弾圧(安政の大獄)だった。橋本左内、頼三樹三郎(らいみきさぶろう)、吉田松陰、梅田雲浜(うんびん)らが死罪になったり獄死したりした。

処罰された大名には、四賢侯(伊達宗城:むねなり・島津斉彬・松平春嶽・山内容堂)のほか、一橋慶喜と、その父で、水戸藩主徳川斉昭がいた。

この安政の大獄には、第1回伊達宗城、第2回島津斉彬でも書いたとおり、徳川慶福(よしとみ:のち徳川家茂:いえもち)を推す南紀派と、一橋慶喜を推す一橋派が対立した将軍継けい嗣し問題もからんでいた。

安政の大獄を演出した井伊直弼にしてみれば、幕府の決定事項に反対した一橋派は「邪魔」「目の上の瘤」だった。だから一気に排除しようとした。

まして一橋派の大名たちは、進歩的で、西洋文明の採用に積極的だった。徳川斉昭もまたしかり。西洋式大砲「太極砲」、ひとり乗り戦車「安神車」を造らせたほか、潜水艦の図まで書き残しているほどだった。

結果、招いたのが桜田門外の変だった。

直弼暗殺を実行したのは、水戸藩を脱藩した浪士17人と、薩摩藩を脱藩した有村次左衛門ひとりだった。

実行犯が水戸浪士だけなら、処罰された主君の「仇」だったのだろうと理解できる。

だが、たったひとり加わった元薩摩藩士有村次左衛門が、直弼の首を斬った事実、そのあと自害している事実を照らし合わせると、どうも貧乏籤を引かされたのではないかとも思えて仕方がないのだ。

桜田門外の変の背後には徳川斉昭がいたのではないか、という説もある。脱藩浪士なら、「知らぬ存ぜぬ」で通るし、もし黒幕と察知されても、直弼の首を斬ったのは水戸浪士ではないと言え、藩名を傷つけることはないからだ。

斉昭が黒幕ゆえに、井伊直弼の「仇」として、蟄居謹慎中の斉昭が「殺された」とする異説まで存在している。

穿(うが)った見方をしはじめると、キリがない。

直弼暗殺に黒幕がいたにせよ、黒幕がだれにせよ、安政の大獄が、桜田門外の変を引き起こしたことはまちがいない。

「大老」という地位にあって権力を恣(ほしいまま)にした直弼には、「幕府=政策決定機関」の事実上の長であるという自負があった。

弾圧された四賢侯、慶喜、斉昭らには、自分たちが「諮問機関」であるとの自負があった。

まさにプライドとプライドのぶつかり合いだった。

物事を決断するには、反論や反発を踏まえたうえで、並々ならぬ勇気を振りしぼらなければならない。

だが直弼は、決断する前に、説得を試みず、根回しをしなかった。「しても無駄」と思っていたかもしれない。だが、結果的には、決断の勇気は称えられず、高慢、傲慢と思われ、しっぺ返しを食うことになった。

己れだけでなく息子の慶喜まで弾圧された、蟄居謹慎中の斉昭は慚愧の念に堪えなかったにちがいない。「なにゆえ井伊直弼は聞く耳を持たぬのだ」と。