幕末には、「四賢侯」と呼ばれる藩主たちがいた。

宇和島藩主伊達宗城(だてむねなり)、薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)、福井藩主松平春嶽(しゅんがく)、土佐藩主山内容堂(ようどう)の4人。

4人は、大老や老中職にはなかったものの、ときに幕政批判をして弾圧され、ときに幕政を取り仕切った。この4人以外にも「賢侯」に数えてしかるべき藩主たちがいた。

今回から6回、幕末に異彩を放った藩主たちの生きざまを通し、難局に直面したとき、いかに対処し、いかに乗り切るかを考えていきたい。

言わずと知れたことだが、江戸幕府は徳川幕府とも称する。俗に「三百藩」といわれる諸藩の頂点に立つ徳川将軍家の当主である征夷大将軍が、諸藩主のなかから「閣僚」を指名し、政(まつりごと)を行うシステムだった。

「三百藩」の藩主たちは、徳川将軍家に忠誠を尽くすように見せながらも、それぞれの「藩」=「国」のなかでは「お殿様」として君臨し、独自の政を行っていた。

徳川将軍家は改革を繰り返しながら、「政権」を維持しつづけていたが、システム自体が疲弊した幕末、鎖国制度に業を煮やした諸外国から目をつけられ、ついに黒船来航によって半ば強制的に鎖国を解除させられることになる。

むろん、長崎などから西洋の情報は入っていた。幕府は、日本が諸外国に遅れをとっている事実を知りながら、「鎖国」を言い訳にして目をつぶりつづけていたのだ。

だが諸藩は、そうではなかった。いや、そんな悠長なことはいっていられなかった。諸外国の文明を知り、積極的に蘭学を採用した。

「いま、そこにある危機」を直視する勇気を持っていた。

そのひとつが宇和島藩であり、藩主伊達宗城だった。

文政元年(1818)生まれの宗城は、もともと藩主の家に生まれたわけではなかった。なかなか跡継ぎができない藩主宗紀(むねただ)の養子となり、宗紀の娘と婚約。宗紀の隠居にともなって藩主に就任したのだ。

宗城は、先代宗紀の殖産興業をメインとする藩政改革を発展させ、蛮社の獄で投獄されたのち放火脱獄して江戸に潜伏していた高野長英を招いて、兵法書など蘭学書の翻訳、宇和島藩の軍の洋式化を任せた。

長英が宇和島を去って江戸にもどると、こんどは長州から村田蔵六(のち大村益次郎)をも招いた。蔵六を招いたとき、ちょうど宗城が参勤交替で留守にしていた。役人たちが安い禄高で蔵六を雇ったことを知って叱責したというエピソードが残っている。蔵六にもまた医学や西洋兵学の講義、翻訳を行わせ、黒船に似た軍艦の設計を命じた。蔵六は長崎で造船技術を学び、日本人だけの力で黒船に似た蒸気船を作り上げる。

阿部正弘の死後、井伊直弼(なおすけ)が大老に就任すると、病弱の13代将軍徳川家定の後継をだれにするかという「将軍継嗣問題」が起きる。紀州藩主徳川慶福(よしとみ:のち家茂(いえもち))を推す井伊にたいし、宗城ら四賢侯は、水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の子、一橋慶喜を推薦する。いわゆる南紀派と一橋派の対立だ。結果、井伊は強権を発動。14代将軍には慶福が就任して家茂となり、一橋派は排除・弾圧されてしまう。

これが安政の大獄だ。

宗城もまた、ほかの四賢侯、斉昭、慶喜らとともに、隠居謹慎を命じられることになった。

宗城は、先代宗紀の子伊達宗徳を養子として藩主の座を譲り、隠居後も実権を握りつづけ、隠居謹慎がとけると、ふたたび幕政に関与。四侯会議にも参加することになる。

「いま、そこにある危機」=現実を見据え、立ち向かい、苦境に陥っても爪を研ぎつづけ、鈍らせない。だからこそ賢侯に数えられるのだ。