※本稿は、渡邊大門『豊臣秀吉と秀長 天下取り兄弟の真実』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
秀長の父親はいったい誰なのか?
秀長が秀吉の弟として生まれたのは、天文9年(1540)である。『系図纂要』(江戸末期成立)は、同年3月2日に竹阿弥の子として生まれたと記している。秀長の実父に関しては、諸説あるので検討を加えることにしよう。そこには、秀吉、朝日の実父の問題も絡んでいる。
木下弥右衛門と天瑞院の間に秀吉と瑞龍院が誕生し、秀長と朝日は天瑞院と再婚相手の竹阿弥の間に誕生した子であると記すのは、『明良洪範』である。同じく『太閤素生記』も、秀長と朝日は竹阿弥の子だったとする。同書によると、秀長は竹阿弥の子として生まれたので、小竹が幼名だったとも記載されている。
この説に対しては、天文16年(1547)に「御父が逝去」という記事があり、亡くなった「御父」は弥右衛門であると指摘された。この指摘が正しければ、秀長は天文九年(1540)、朝日は天文12年(1543)にそれぞれ誕生しているので、弥右衛門の生存中に生まれたのは明らかである。秀吉ら4人の兄弟姉妹は、全員が弥右衛門と天瑞院の間に誕生した子になる。
兄弟ともに貧しい生活を送っていた
弥右衛門が天文16年(1547)に亡くなったとする説がある一方で(『明良洪範』)、『太閤素生記』は秀吉が8歳のときに弥右衛門が亡くなったと記す。秀吉の誕生年から計算すれば、弥右衛門の亡くなった年は天文15年(1546)になる。どちらの説に拠っても、秀長と朝日が誕生した年は、弥右衛門の没年より前になるので、二人とも竹阿弥の子でないのは明らかである。
『明良洪範』、『太閤素生記』はいずれも記述内容に誤りが多いので、史料としての質が低く信用できない。しかし弥右衛門の没年を考慮すれば、秀長と朝日が竹阿弥の子でないのは明らかである。秀吉ら4人の兄弟姉妹の父は、現時点で弥右衛門と考えてよいだろう。
幼少期の秀長の幼名は小竹だったというが、秀長は竹阿弥の子でなかったのは先述のとおりなので、この説は誤りといえる。秀吉の幼名も小竹だったと『太閤素生記』などに書かれているが、こちらも史料の質を考慮すると疑わしい。秀吉と秀長の幼名が小竹であることについては、確証がないといえるだろう。
青少年期の秀吉については数多くのエピソードが残されているが、秀長ら兄弟姉妹に関しては、皆無といって差し支えない。とはいえ、秀吉とその兄弟姉妹は同じような生活をしていたのは想像に難くなく、貧しい生活を送っていたと思われる。
秀長の妻、慈雲院の生涯
秀長の妻の慈雲院については、父母の名前、実名、生没年などはわからない。秀長と慈雲院が結婚した時期は永禄10年(1567)頃と推測される。二人は与一郎という男子をもうけたが、与一郎は天正10年(1582)に亡くなった。
天正13年(1585)、秀長は慈雲院とともに、秀吉から支配を任された大和国に入った。慈雲院は春日社や長谷寺に詣でるなどし、厚い信仰心を示した。秀長が晩年に病気に罹ったときは、平癒を祈願してもいる。
天正16年(1588)9月、家康は慈雲院に綿五百把を、また毛利輝元は紅糸百斤、銀子二十枚をそれぞれ慈雲院に贈った。諸大名は慈雲院を気遣って、貴重な品々を贈ったのだろう。翌年9月、秀吉は、3年間にわたり妻を在京させるよう諸大名に命じると、慈雲院にも同じことが求められた。秀長は秀吉の弟だったが、二人の主従関係は厳然たるものだった。

