秀長には「光秀」という側室がいた

秀長死後の天正19年(1591)2月、秀吉は千利休が大徳寺山門に木像を置いたことに激怒し、連座して大徳寺の三人の長老も処刑しようとした。その際、慈雲院は天瑞院(秀吉の母)と秀吉に長老の助命嘆願を行い、受け入れられた話がある。

秀長の死後、養子の秀保が家督を継承したので、その後見を慈雲院が務めた。これは決して珍しいことではなく、戦国時代には若い当主を後家が後見した例がいくつかある。慈雲院は、文禄3年(1594)頃に没したと考えられる。

秀長には摂取院光秀という側室がおり、その父は伝左衛門なる人物で、秋篠家の出身だったという。伝左衛門は郡山城に出仕し、秀長に仕えていた。天正17年(1589)2月、伝左衛門は体調が不良になると、その3年後の4月に病没し、翌月には高野山(和歌山県高野町)に葬られた。文禄4年(1595)4月に秀保が病没すると、光秀は秀吉から新堂村の内から二百石を与えられたが、これ以後は光秀の記録が確認できない。

秀長の妻妾はほかにもいたようだが、史料を欠くので詳細は不明である。

歴史から消された秀吉の兄弟姉妹

秀吉には瑞龍院、朝日、秀長という兄弟姉妹がいたが、それ以外にも兄弟姉妹がいたという記録があるので、次に紹介することにしよう(ルイス・フロイス『日本史』松田毅一・川崎桃太訳第一二章)。

『日本史』には天正15年(1587)のこととして、「一人の若者が、いずれも美々しく豪華な衣裳をまとった二、三十人の身分の高い武士を従えて、大坂の政庁(大坂城)に現れるという出来事があった。この若者は伊勢の国から来たのであり、関白(秀吉)の実の兄弟と自称し、同人を知る多くの人がそれを確信していた」という衝撃的な記録を残している。

天正15年(1587)は、秀吉が関白に就任した翌々年で、四国征伐(長宗我部征伐)、九州征伐(島津征伐)を終えた頃だった。このとき秀吉は51歳である。この若者は日本側の史料に記載がなく、話自体が史実なのか疑わしい。周囲の人々が秀吉と若者が兄弟であることを確信していたと書かれているが、それはどういう根拠に基づくものなのだろうか。それすらも謎である。

秀吉は実の兄弟と称する若者に関して、母の天瑞院に次のとおり問い質した。