※本稿は、野地秩嘉『豊田章男が一番大事にする「トヨタの人づくり」 トヨタ工業学園の全貌』(プレジデント社)の一部を再編集したものです。
万博翌年、970人の“坊主頭”が学園に集結
宮城県からトヨタ工業学園にやってきたのが菅原政好だ。1971年のことだった。彼もまた学園のかつての歴史を知る男だ。
菅原が入学した年は大阪で前回の万国博覧会が開かれた翌年のことである。ベトナム戦争が激化していた最中だ。その年、日本とアメリカの政府は沖縄返還協定に調印した。実際に返還されたのは翌72年だ。中華人民共和国が国連に加盟したのもこの年のこと。
菅原が3年間の授業と実習を終え、トヨタに入った1974年の同社乗用車生産台数は148万4737台。日本国内のトラックも含むクルマの生産台数は393万1000台だった。一家に一台のクルマが実現した時代である。
菅原が学園に入った時は全員が男子。しかも、全員が坊主頭で学生服だった。
菅原は思い出す。
「東北から学園に入った人は少数でした。東海圏の人たちが多かったんです。僕の故郷は仙台市からクルマで40分くらい北に向かった大崎市です。そこから学園に入った時、1学年の同級生は970人もいました。みんな学生服で坊主頭だった。寮の部屋は5人部屋でした。今とは大違いです。
トヨタへ来ようと思ったきっかけは兄貴が地元の整備工場で働いていたからです。それで、自分もまた学園に来て自動車のことを学んで、卒業したらトヨタにちょっとだけいて、その後は故郷に帰って兄貴と一緒に整備工場がやれたらいいと。でも、結局、居心地がよかったのと、集中できる仕事に出合えたから、半世紀たった今でもまだ働いています」
社長が他社に頭を下げたあの日を忘れない
菅原が学園に入った頃、トヨタが取り組んでいた課題はマルハイ。つまり、排気ガス対策だった。排気ガス対策は環境問題のさきがけで、大気汚染に対する規制強化が始まったのは1970年、アメリカでマスキー法(1970年大気清浄法)が成立してからだ。
この時、自動車の排出ガスに関しては次のふたつが決まった。
B 1976年型車からNOx(窒素酸化物)を1971年型車平均排出量の10分の1以下にする。
それから5年間近く、日本の自動車会社の技術陣はこのことに注力した。トヨタは1975年、排出ガス規制対策として、触媒方式とともに複合渦流方式を採用することを決定した。
菅原は言う。
「排気ガス対策で触媒方式を採用したことにより、トヨタはクルマの性能を落とすことなく規制に適合できた。これが大きかった。そこからトヨタは波に乗っていったんです。当初、マルハイ規制では触媒方式を導入する以前、ホンダの方式を採用しようとしたことがありました。
解決できない問題があり、当時の社長だった豊田英二さんが本田宗一郎さんに頭を下げて技術を教えてくれと頼んだ場面があったんです。僕はその時はすでに学園を出て技術部に配属されていましたが、社長が他社に頭を下げたことに対して、申し訳ないなという思いが強かった」

