人生で起きる出来事にはすべて意味があると言われる。本当か。お笑いコンビ・髭男爵の山田ルイ53世さんは「その言葉は、生産性、コスパを追求しているようで、息苦しい。ただただ無意味に人生を浪費する自由も許されてしかるべき」という――。

※本稿は、山田ルイ53世『僕たちにはキラキラ生きる義務などない』(大和書房)の一部を再編集したものです。

山田ルイ53世さん

©︎サンミュージックプロダクション

あらゆることに意味を見いだすのは違う

14歳から20歳まで、筆者は不登校、引きこもりだった。

その時代のあれこれについて、新聞やテレビ、YouTube等でインタビューを受ける機会があるのだが、そういった取材は、

「でも、引きこもった経験があったからこそ、今の山田さんがあるんですよね!」

との先方の言葉で、「総括」されることが多い。筆者の個人的な統計で恐縮だが、約8割だろうか。

いや、折角のインタビュー記事。口当たり爽やかな、喉越しの良い、前向きな内容で着地したいのはよく分かる。

とはいえ、本人がそんな風には捉えていない。

先の質問に対して、筆者は心を込めて、

「いえ、あのヒキコモリ期間はムダでした」

とお伝えすることにしている。実際、無駄だった。少なくとも現在の糧になどなっていない。

「友達と遊んだり、修学旅行に行ったりした方が充実していました」

と率直に後悔の念を口にし、時にはあえて強いトーンで、「あの時間はドブに捨てたようなものです!」と突き放すこともある。

勿論、引きこもり期間に出会った趣味が今の仕事に繋がっている、そういう人がいても結構。むしろ、その方が健全かもしれない。

ただ、当人が無駄だったと断じたこと、そういった感想や記憶さえ、第三者に「そうじゃない」とポジティブの御旗のもと、否定されては居心地が悪い。理不尽である。