※本稿は、齋藤孝『不機嫌は罪である』(角川新書)の第1章「もはや不機嫌は許されない」を加筆し再編集したものです。
慢性的な不機嫌に蝕まれている現代人
あなたは日々の生活のなかで、次のような人を見かけたことがないでしょうか。
・ご近所どうしで挨拶しようとすると、スタスタと歩いていってしまう人。
・スーパーマーケットで小さな子供が泣き出しただけで、眉をひそめる人。
・飲食店のスタッフが少し雑談をしているだけで、クレームをつける人。
・電車がちょっとでも遅延すると、駅員に詰め寄って怒鳴る人。
・ベビーカーを見かけると、「邪魔」という感情を隠さない人。
・朝出社したときに、同僚に挨拶もせず、仏頂面でデスクに向かう人。
・会議で自分の提案がうまく通らなかったからといって、つっけんどんになる人。
・部下が失敗したときに、周囲の目も気にせず、ヒステリックに怒鳴りつける人。
挙げていくときりがありませんね。どれも、おそらく心当たりのある光景ではないでしょうか。しかもこうした行動をとっている人には、地位も分別もありそうな方もかなりいらっしゃいます。
もしかしたら、あなた自身もこれらの行動をとってしまい、後悔したこともあるかもしれません。あるいは、自分がそうした行動をとっていることに気づかずに、周囲から「あの人って不機嫌だな」と敬遠されている可能性もあります。
機嫌とは、人の表情や態度に現れる快・不快の状態です。つまり不機嫌とは、不快な気分を表情や態度にあらわしているさまをいう言葉です。
不機嫌にも「役割」はあります。というのも、感情は情報伝達のための手っ取り早い手段でもあるからです。
たとえば喫茶店で、店員から不要なミルクを入れられそうになったときに「ちょっと!」と遮るのは、効果的な不機嫌といえるでしょう。取引先で交渉に不利になる情報を部下が明かしそうになったときに、「君!」とむっとした顔をするのも、方便としての不機嫌です。取り返しのつかない状況を未然に防ぐために、やむなく情報伝達としての不機嫌を活用することは、必ずしも悪いことではありません。
現代人は四六時中、誰かの不機嫌な言動にさらされている
しかしここで言いたいのは、現代人の不機嫌の大半は、こうした情報伝達のためではないということです。
現代を生きる人の多くがかかえているのは、行き場のない「慢性的な不機嫌」です。情報伝達の差し迫った必要性があるわけでもなく、不快であることを伝えても事態は何も解決しないのに、無意味な不機嫌を世の中に撒き散らしている人があまりにも多い。
誰も「舌打ちや罵倒をしたら事態が良くなる」と思っているわけではないのに、どうしても表に不機嫌を出してしまっている。現代人は四六時中誰かの不機嫌な言動にさらされ、ちょっとずつ精神を消耗しています。そして自らも、知らず知らずのうちに不機嫌に侵食されてしまっているのです。