豊臣秀吉は、本能寺の変から2週間足らずで明智光秀を倒した。歴史学者の渡邊大門さんは「各地に散っていた信長の家臣たちの中で、とっさに光秀を討とうとするリーダーシップがあったのは秀吉だけだった」という――。

※本稿は、渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

明智光秀像
明智光秀像(画像=朝日新聞デジタル〔本徳寺蔵〕/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

6月1日、信長にとって最後の夜

羽柴(豊臣)秀吉の天下取りのきっかけは、本能寺の変にある。秀吉は主君の織田信長を謀殺した明智光秀を討ち、織田家中における立場を優位にした。なお、この時代の天下とは日本全国ではなく、京都および畿内を意味する。

天正10年(1582)6月1日夜、居城の亀山城(京都府亀岡市)を出発した明智光秀は、備中高松城(岡山市北区)で対陣中の羽柴秀吉の救援に行かず、突如、進路変更をして織田信長のいる本能寺(京都市中京区)に向かった。亀山城から本能寺までは、直線距離で約14キロメートルだ。信長を討つことを知っていたのはおそらく一部の重臣だけで、ほかの兵卒らは知らなかったに違いない。本能寺襲撃は、トップシークレットだった。

一方の信長は、よもや光秀軍が攻め込んでくるとは夢想だにせず、夜には子の信忠と語らっていた。側には近習や小姓などもおり、楽しいひと時を過ごしていた。夜が深くなり、信忠は本能寺を辞去して、宿所の妙覚寺(京都市上京区)に戻った。その後も信長は女性を召し寄せ、歓談していたという。

有力な家臣もお供も近くにいなかった

光秀は途中の場所で控え、光秀の手勢は家臣の明智秀満(光秀の女婿)や斎藤利三らを先頭に、少しずつ本能寺へと迫っていった。そして、兵卒を四方の部隊に分けると、本能寺の宿所を取り囲んだ。夜が明けそうな頃、兵卒は合壁かっぺきを引き破り、門木戸を打ち壊すと、信長のいる宿所に一斉に乱入したのである。こうして、本能寺の変は勃発した。

信長は、光秀の襲撃をまったく予想していなかった。配下の有力な武将は、東国、西国の反信長派を討伐するため、出陣中だった。おまけに信長の供をしていた人々は、京都市中の各所に出掛け、遊興に耽っていたという。番所に詰めていたのは、わずか100名余の小姓に過ぎず、警備はかなり手薄だったのである。信長は油断していたのだ。