織田信長の死後、織田家家臣の勢力図を変えるきっかけとなったのが清須会議だ。歴史学者の渡邊大門さんは「映画や小説では、豊臣秀吉が主導権を握って後継者を決めたように描かれるが、一次史料を読み解くと異なる実態が見えてくる」という――。

※本稿は、渡邊大門『清須会議 秀吉天下取りのスイッチはいつ入ったのか?』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

左:豊臣秀吉像、右:柴田勝家像
左:豊臣秀吉像(画像=狩野光信/高台寺蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)、右:柴田勝家像(画像=福井市立郷土歴史博物館/個人蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

信長の後継者をめぐり、織田家重臣が集結

本能寺の変後、問題となったのが信長の後継者である。本来ならば、嫡男の信忠が継ぐべきなのだろうが、信忠も本能寺の変に巻き込まれて横死した。そこで、信長の後継者を決めるべく、天正10年(1582)6月27日に催されたとされるのが清須会議である(開催日は諸説ある)。清須会議なる名称は当時の史料にはなく、のちに付けられたものである。

最初に、従来説を確認しておこう。

清須会議に出席した織田家の重臣は、羽柴秀吉、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興の4人である。重臣の滝川一益は上野から伊勢に逃亡したので、参加できなかった。

信長の後継者の候補としては、次男・信雄と三男・信孝の2人がいたが、三男の信孝を推したのが柴田勝家である。それに対し、光秀討伐に功があった秀吉は、信忠の嫡男で、当時まだ3歳だった三法師(のちの秀信)を擁立。丹羽長秀、池田恒興がこれに賛成した。

織田・豊臣・徳川 家系図のつながり
出所=『清須会議

ほかの3人を出し抜いた秀吉

次男の信雄が候補にあがらなかったのは、そもそも家督継承の資格がなく、同様に資格を欠いていた信孝とは違って推してくれる宿老がいなかったからだろう。信雄と信孝の2人に家督継承の資格がないというのは、嫡長でなかったこと、養子に出されていたことが理由となろう。

江戸時代に人気を博した『絵本太閤記』には、信孝を支持する勝家に対し、秀吉が三法師を抱いて諸大名の上座に現れる様子が描かれている。意表を突かれた他の三宿老は、秀吉と三法師に平伏せざるを得なかった。すでに三法師は秀吉になついており、秀吉の巧妙な筋書きで織田家の後継者が決まったような描写である。