一次史料から読み取れる清須会議の実態

2人は名代の地位をめぐって争い、互いに譲ることがなかったので、織田家の宿老だった秀吉、勝家、恒興、長秀が仲介に入った。最終的に4人が天下の政務を執ることによって、三法師を支えることになり、堀秀政が三法師のお守役を担当した。

信雄と信孝はこれに納得して分国の配分を行い、その証拠として誓紙が交わされたのである。それは『多聞院日記』にもあるとおり、秀吉の思いどおりになったのである。

あとになって、信孝はどうしても納得できなくなり、秀吉との関係が悪化する。信孝は秀吉に対抗すべく、預かった三法師を安土に戻さなかったのだ。

秀吉は信孝との関係を修復するため、「金井文書」のなかで、三法師を擁立した経緯、宿老が三法師を守り立てることを信孝が了解したことを改めて説明したのである。さらに、養子の秀勝を織田家の家督に据えることもないと明言した。つまり、宿老体制が強調されがちだが、秀吉の突出した存在に注意しなくてはならない。

6月2日の信長の死から3週間前後

ただ、残念なことに、清須会議がいつ行われたのかについては判然としない。『多聞院日記』には、天正10年6月29日条に信雄と信孝が争っている記事があるので、少なくともそれ以前から2人が揉めていたのはたしかである。

信雄・信忠が相論に及んだので、宿老たちが信忠の嫡男・三法師を守り立て、天下の儀を差配すると記した「小西康夫氏所蔵文書」中の勝家ら連署状の日付は、6月27日である。

同じく「大阪城天守閣所蔵文書」中の秀吉書状の日付は6月26日であり、秀吉が21日に清須城に向かったという記述がある。

したがって清須会議は、秀吉が尾張清須城に入った6月21日から26日の間に開催されたと考えられる。あるいは、6月27日に開催され、すぐに秀吉ら宿老衆の連署状が発給された可能性も否定できない。

一次史料の記述には結論だけが書かれており、清須会議の議論の過程が抜け落ちている。それゆえ、一次史料を補ううえで、二次史料の記述に捨てがたい点があるのも事実だ。