「清須会議の真相」もう一つの可能性
三法師が織田家の家督を継承するのは既定路線と述べたが、家督の決定は基本的に織田家中の問題である一方、家臣らの同意も要したに違いない。となると、すでに20代半ばに達していた信雄と信孝が、家督をめぐって争った可能性も否定できない。
御家騒動に際しては、互いが有力な家臣を巻き込んで争うのが通例である。つまり、織田家の家臣が信雄派、信孝派に分かれた可能性もあろう。
とはいえ、いつまでも家督継承で揉めるわけにもいかず、ましてや互いに戦うような事態になれば、最悪な結果をもたらすことになる。それを避けるためにも、織田家の重臣の意向として信忠の遺児・三法師を立てれば、ことは収まると考えた。
だが、名代の座をめぐり、信雄・信孝の2人が争ったので、秀吉ら宿老4人が三法師を支えることで妥協点を見出したとはいえないだろうか。そうなれば、問題は織田家の家督というよりも、次の天下人の選定ということになる。
三法師が「敵」の信孝に預けられた理由
堀秀政が三法師のお守をするというのも、信雄・信孝のいずれにも預けないための措置であった。時間をかけて、信雄・信孝のわだかまりを解決しようとしたのかもしれない。ところが、三法師は秀政ではなく、一時的であるが信孝に預けられることになった。焼けた安土城を改修するため、すぐに三法師は戻れなかったからである(「専光寺文書」)。
この宿老4人体制はしばらく続いたが、実質的な主導権を握っていたのは秀吉だった。やがて信孝は秀吉に強い不信感を抱き、いったん預かった三法師を安土に返さなかった。その理由は、京都市中の支配をめぐる両者の確執である。やがて秀吉は、信孝の後ろ盾となる勝家とも対立することになる。
こうした考え方は、一次史料に基づくものではないが、一つの可能性として提示しておきたい。


