信孝・勝家が不満を募らせ…という筋書き

その結果、織田家の家督は宿老衆の賛成多数で三法師が継いだものの、秀吉は所領配分の際も山城・丹波・河内の一部などを獲得した。事実上、秀吉は信長の後継者になり、丹羽長秀、池田恒興の2人の宿老は秀吉に籠絡された。

一方、勝家は秀吉の旧領である近江北部を獲得したに過ぎず、京都支配も秀吉が掌握したため、その立場は弱くなっていった。織田家の家督を継げなかった信孝も、秀吉に不満を抱いていた。信孝と勝家の2人が結託して秀吉に対抗するのは、さほど時間がかからなかった。秀吉は、巧みに信孝と勝家を陥れたのだ。

その後、秀吉は柴田勝家を討伐、信孝も死に追いやると、信雄を暫定的に織田家の家督に就けた。天正12年の小牧・長久手の戦いでは、反抗した信雄と家康を封じ込め、天正13年7月には関白に就任する。さらに四国、九州、小田原、奥州と討伐戦を繰り返し、秀吉はついに天下人となった。秀吉は清須会議で主導権を握り、それは天下人になるための重要な会議だったと評価されている。

清洲会議の一場面。豊臣秀吉が3歳の三法師を抱いてあらわれた
清洲会議の一場面。豊臣秀吉が3歳の三法師を抱いてあらわれた(画像=ブレイズマン/日本城郭資料館所蔵/PD-Japan/Wikimedia Commons

織田家の家督をめぐり争ったわけではない

ここまで述べた従来説の清須会議は、映画、テレビドラマ、小説などでおなじみのものであろう。しかし、それは江戸時代後期に成立した読本よみほんの『絵本太閤記』(武内確斎著、岡田玉山画)や二次史料に書かれたものをベースにしており、全面的に信が置けるものとはいえない。それは従来説というよりも、創作あるいは俗説といえるかもしれない。

清須会議の内実について、本書では改めて一次史料の情報をもとにして検討しているが、整理すると、おおむね次のようになるだろう。

信長の死後、嫡男・信忠の遺児・三法師(信長の嫡孫)が織田家の家督を継ぐことは既定路線であった。だが当時、数え年で3歳の三法師が自ら政務を執ることは不可能である。そこで、三法師が元服するまでの期間を目途として、信雄と信孝のいずれかが名代となる必要があった。

つまり、問題になったのは、三法師の名代を誰に任せるか、である。信雄と信孝が争ったのは、三法師の名代としての地位であり、信長の後継者となるべく、織田家の家督を争ったわけではない。