信長の死を知った秀吉の仕事ぶり

四国渡海を控え、摂津住吉に滞在中だった織田信孝らも、京都に近い場所にいた。当時、信孝は20代の青年武将で、丹羽長秀ら信長の重臣に支えられていた。しかし、彼らも京都に急行して光秀を討とうとはしなかった。

そうした状況下において、唯一、光秀を討つべく京都に向かったのは、羽柴秀吉だけだったのである。そして、秀吉の迅速な行動は、その後の織田家臣団の立ち位置で重要な意味を持った。

6月3日夜、落城を間近にした備中高松城を前にして、秀吉のもとに使者が書状を届けた。書状には、前日の2日に本能寺で信長が光秀の奇襲を受け、自害したと記されていたに違いない。秀吉の驚きぶりは、想像するに余りある。ただ、あくまで推測である。残念ながら、秀吉がいつ「信長横死」の情報を得たのかは判然としない。

ここからの秀吉の行動は迅速だった。

光秀打倒を決意した秀吉は、6月3日の深夜から毛利氏との和睦交渉を開始する。交渉が長引けば、それだけ光秀に態勢を整える時間を与えてしまうので、スピードが要求された。

しかし、秀吉は有利な状況にあった。水攻めのなか籠城して抗戦する清水宗治への救援が事実上困難であったため、毛利氏は秀吉との和睦締結に傾きつつあったのだ。むろん、信長の死を毛利方に知られる前に、という目論見もあっただろう。

疲労困憊の中、岡山から京都へ

和睦締結の後、秀吉は早速、城中の宗治に対して最後の酒と肴を贈った。秀吉は孤島と化した備中高松城に小舟を送り、宗治とその家臣を本陣に招き入れた。ともに杯を酌み交わし、宗治は舞を舞った後、辞世の句を詠んで自刃して果てたといわれている。結局、毛利氏は信長横死の情報を得るのに手間取り、秀吉を追撃することはなかった。

4日の午前10時頃、上洛に向けて準備を整えた秀吉は、備中高松城に腹心の杉原家次を置くと、京都に向けて出陣する(6日出発という説もある)。秀吉の取った経路は、野殿のどの(岡山市北区)を経て、宇喜多氏の居城である沼城(岡山市東区)へ向かうコースだった。直線距離にして約22キロメートルである。

兵は籠城戦後かつ重装備での行軍であり、心身の疲労は大きかったであろう。秀吉も同じく疲労困憊こんぱいだったに違いない。