落武者狩りに遭った光秀の遺体は磔に
その頃、明智軍の敗北を知った農民たちは、落武者の所持品や首級を狙って、落武者狩りを行っていた。とくに大将の首級を持参すると、多大な恩賞を得ることができた。
案の定、光秀らは竹藪で土民らの落武者狩りに遭い、無残にも非業の死を遂げたのである。家臣の斎藤利三は、堅田(滋賀県大津市)に潜んでいるところを捕縛された。その後、六条河原で殺害された。こうして明智軍は全滅。光秀の謀叛は、「三日天下」と揶揄されたのだ。
7月2日、光秀の斬られた首は胴体と接続させて、京都粟田口(京都市東山区・左京区の境)で磔にされ、衆人の面前で辱めを受けた。利三も同じ措置を施された。多くの見物人が集まったという。そのほか討ち取られた首が3000余もあり、それらの首を埋葬して首塚が築かれた。


