「中国大返し」は過大評価されている?
その後、秀吉は姫路(兵庫県姫路市)を経て山陽道を東上し、6月12日には尼崎(兵庫県尼崎市)を通って摂津富田(大阪府高槻市)に着陣した(「金井文書」など)。秀吉は行軍しながら、光秀の動向について情報を探っていたに違いない。
秀吉は前日の軍議で高山右近を先陣に決定し、早速、大山崎(京都府大山崎町)へ陣を取るように命じた。秀吉が摂津富田に着陣すると、すでに光秀軍との前哨戦が始まっていた。光秀が駐留していた勝竜寺城(京都府長岡京市)付近では、両軍が鉄砲を打ち合っていたのである。
12日夜、摂津富田で一夜を過ごした秀吉軍は、13日の朝に同地を発ち、いよいよ決戦の地・山崎へと向かった。秀吉軍が山崎に着陣したのは、13日の昼頃であった。備中高松城から山崎まで、約170キロメートルである。「中国大返し」は、尋常でない移動スピードが強調されるが、現在ではそれほどでもなかったという否定的な見解が強い。
「天下人」が一夜で「哀れな敗残者」に
山崎で再び秀吉軍と合流した信孝の号令により筒井順慶が出撃すると、光秀との戦いが本格化した。
夜になると、光秀軍が秀吉軍を攻撃してきたため、これに対して反撃を行った。摂津衆の高山右近、中川清秀、池田恒興は、地元の地理にも詳しかったので戦いを有利に進め、秀吉軍はたちまち光秀軍を敗北へと追い込んだ。当時の記録に、光秀軍が「即時に敗北」とあることからも(『兼見卿記』)、秀吉軍の圧倒的な勝利だった。
敗北した光秀軍は勝竜寺城へ逃げ帰ったが、そこも秀吉軍に包囲され、即座に脱出した。光秀軍の一部は京都に流れ込み、大きな混乱を招くことになる。その敗軍の中に、光秀の姿もあったかもしれない。かつて天下人に名乗りをあげた光秀だったが、一夜にして哀れな敗残者に転落した。
大敗北を喫した光秀は、居城のある近江坂本城(滋賀県大津市)を目指し、とにかく逃亡するしか術がなかった。坂本への帰還後、兵を集めて再起を考えていたかもしれない。14日、光秀ら落武者の一行が小栗栖(京都市伏見区)へと差しかかると(醍醐、山科とする史料もある)、ここで意外な結末が待っていた。
