「1万vs数百」の戦はあっという間に決着
変を知った信忠はもはや安土城(滋賀県近江八幡市)まで逃れられないと覚悟し、逃げる途中で雑兵の手にかかるならば、ここで切腹したほうがよいと決断した(『信長公記』)。その後、村井貞勝の進言により、信忠は堅固な構えの二条御所(京都市上京区)へと移動した。
やがて二条御所での戦いが開始される。光秀軍は1万余の軍勢であったが、信忠軍の兵力はわずか数百で、武器も満足になかったという。信忠も自ら武器を取って戦ったが、最後には覚悟して切腹した。享年26。信長に加え、嫡男の信忠が討たれたことは、織田家に深刻なダメージを与えた。
6月2日の未明に始まった戦いは、おおむね9時頃に終了した。わずか3時間余の戦いで、光秀は信長を討つという本懐を成し遂げたのだ。
光秀討伐は岡山にいる秀吉頼りだった
本能寺の変の前後、各地で戦っていた信長配下の勢力はどのような状況だったのかを示しておこう。
①北陸-柴田勝家を筆頭に、佐々成政、前田利家、佐久間盛政が加賀、能登、越中の平定に臨んでいた。6月3日には、越中魚津城(富山県魚津市)を陥落させた。
②中国-羽柴秀吉が備中高松城を攻囲しており、変の前後は和睦に腐心していた。
③関東-滝川一益が上野厩橋(群馬県前橋市)に滞在していた。
④四国-5月29日の時点で、織田信孝以下、丹羽長秀、蜂屋頼隆、津田信澄(信長の甥で、光秀の女婿)が摂津住吉(大阪市住吉区)およびその周辺で待機しており、6月3日に四国渡海の予定であった。
⑤摂津-中国方面の救援に向かうべく、中川清秀、高山右近らが待機していた。
北陸の柴田勝家らの諸将、関東の滝川一益は遠隔地でもあり、情報収集に苦労したと考えられる。とくに、勝家らは上杉氏と対峙しており、身動きできない状況だった。光秀にとって有利な状況だったのだ。
武将の面々でもっとも京都に近かったのは、中川清秀と高山右近である。二人は秀吉の与力(加勢する武将)として、中国方面に向かう予定だった。いかほどの軍勢を抱えていたかは不明であるが、とっさに光秀を討とうとするリーダーシップはなかったのだろう。
その後の動きによると、中川氏は秀吉と書状のやり取りをして情報を交換しているので、自ら動くのではなく秀吉を頼りにしていたのは明らかである(「中川家文書」)。

