金融危機の序曲、年末の日々を一変

1994年12月6日、東京・大手町の住友銀行(現・三井住友銀行)の全国銀行協会(全銀協)の別室で、「何とか無事に、年が越せそうかな」と思いながら、事務的な仕事をこなしていた。

三井住友フィナンシャルグループ 社長 国部 毅

すると、担当専務から、呼ばれた。そういえば、部屋にある首脳陣の在・不在を示すランプで、頭取と専務のところが、だいぶ前から消えていた。「どこにいっていたのか?」と思いながらいくと、予想もしない言葉が飛んできた。

「とにかく、これからすべての予定を、キャンセルしてくれ」

理由を尋ねると、経営難となった都内の2つの信用組合から、預金や健全な融資などを移す受け皿銀行をつくるので、全銀協会長行として、金融界の出資を取りまとめることに専念しろ、との意味だった。バブル崩壊後の金融危機の序曲だった。満40歳。比較的平穏だった日々が、この日を境に、劇的に変わる。

頭取と専務は、東京・赤坂の日本銀行氷川分館に、極秘に呼ばれていた。1965年の証券不況の際、田中角栄蔵相らが経営の行き詰まった山一証券に対する日銀の特別融資を決めた場で、通称は氷川寮。後で聞くと、大蔵省(現・財務省)の銀行局長と日銀理事、日本長期信用銀行(現・新生銀行)、富士銀行(現・みずほ銀行)の頭取らが集まった。

当局側が、切り出す。

「受け皿とする新銀行の資本金は400億円。うち200億円を日銀が出すので、あとの200億円を民間金融機関で出してほしい」

預金の取り付け騒ぎなどを防ぐため、応分の負担をしてほしいとの要請だ。長銀は、信組の理事長が兼務していたリゾート開発企業に、巨額を貸し込んでいた。富士は、信組を監督する東京都の指定金融機関。そして、住友は全銀協の会長行だった。4月に住友から初めて就任した。別室は、担当専務の下に臨時にできたチーム。長く企画部で銀行間のテーマを担当してきたことで、1月に別室次長の辞令が出ていた。2信組は、住友に直接は関係ない。だが、突然、「当事者」の1人となった。

世論には、乱脈経営を指摘して「そんな信組を、密室行政で救済していいのか」との批判も出た。だが、信組の預金者や健全な取引先は、守りたい。よその話であっても、同じ金融の仕事に就く身。銀行員という仕事に、誇りも責任感も、人一倍ある。やはり、金融界全体で取り組むべき問題だ。

すぐに、金融機関を回り、事態を説明し、出資の意義を訴える。もちろん、極秘のやりとりだ。当然、渋る相手もある。だが、責務に誇りを持ち、正攻法で説く。翌95年1月13日、新銀行が設立された。152の金融機関が出資に応じ、使命は果たす。

銀行員の仕事に誇りと責任感を再認識する事態は、続いた。4日後に発生した阪神淡路大震災だ。壊滅的な被災地で、人々や商店、中小企業などに、どう力になれるか。全銀協で知恵を集めた。例えば、被災地で週末も開く支店を新聞広告で示し、中小企業には手形の臨時交換所も設けた。金融界全体を考える。2つの経験は、いまでも、貴重な財産になっている。

「敬事而信」(事を敬して信あり)――何事によらず、自分の仕事を敬わなければいけないとの意味で、中国の古典『論語』にある言葉だ。仕事に敬意を払い、誇りを持ってやれば、誰もが自然にその人を信用する、と説く。全銀協会長スタッフとしての役割や大震災への対応で、仕事に誇りと責任感を持って臨み続けた国部流は、この教えに通じる。