最も大事なのは「仕事への姿勢」だ
1954年3月、母の実家の和歌山市で生まれる。父は運輸省(現・国交省)の技術者で、広島で勤務していたので、すぐに母と広島へいく。一人っ子で、両親と3人家族。父も和歌山市の出身で、子どものころは夏休みなどに両親と訪ね、故郷とも言える地だ。
その後、父の転勤が続き、小学校は5校、中学は2校に通い、埼玉県・川口の中学から県立浦和高校、東大経済学部と進み、ゼミでは企業金融論を学ぶ。就職は「企業の成長に役立ちたい」と思い、銀行を受けた。住友は当初の候補になかったが、会社訪問をした2つの銀行の中間にあり、時間もあったのでのぞいたら、面接に出てきた3人の先輩から感じた自由闊達な雰囲気に、ひかれた。
76年4月に入行し、東京営業部に配属。以来、米ペンシルベニア大の大学院ウォートンスクールに留学した期間を除き、44歳で北九州支店長になるまで東京勤務が続く。最初の1年は主計係で、振り返れば、ここでの経験が「敬事而信」の出発点となった。
銀行内で書かれた膨大な伝票が最後に回ってくる部署で、勘定を合わせるのが仕事。手動の加算機で出入りの額を打ち込むが、打ち間違えのせいかなかなか合わず、計算し直してもまた違う。ベテラン女性に怒られ、上司に「きみたちには無理だから、同期の女性がしっかり働けるように、お世話しなさい」と指示された。
だから、仕事に気が乗らない。でも、やっているうちに、はっ、と思う。次々にくる伝票をみていると、いま銀行でどういう取引が主体かがわかる。同じ取引先の名があれば、「そうか、ここはこうか」とみえてくる。仕事に誇りと責任感を持つ姿勢が生まれ、周囲の信頼を得た。それが、米国留学をもたらしたのかもしれない。
留学は2年間。経営学の修士号(MBA)を取って帰国、調査二部を経て企画部へいく。希望したわけでもなく、驚いた。当時の企画部は「奥の院」のようで、何をやっているのかわからない。内示を聞いて「えっ?」と思ったことを、いまでも覚えている。それが、続けて14年半もいることになり、冒頭の2信組問題に遭遇する。
企画部では、予算管理係の班長もした。全く素人だったが、数字は頭にす~っと入るほうだ。何冊も専門書を読み、決算の仕組みから貸借対照表、簿記などを勉強したが、数字が嫌いなら、それはできない。やれたのは、やはり好きなのだろう。ここも、もちろん、「敬事而信」で取り組んだ。その経験が、巨額の不良債権処理と株価急落で決算が苦しくなり、国有化の瀬戸際に追い込まれたとき、48歳で財務企画部長に就く人事につながる。
2011年4月、頭取に就任。多忙のなか、全国の営業拠点などを訪ね、現場と直接話す「フロントミーティング」を始めた。新人たちには、自分の駆け出し時代、主計係の経験を話す。最初はつまらない作業にみえたが、伝票の山から、いろいろなことを学んだ。仕事に誇りを持って臨めば、留学もできた。そう紹介しながら「仕事に対する姿勢が大事だ。どの部署にいても、取り組む姿勢次第で仕事は面白くもなり、面白くなくもなる」と説く。フロントミーティングは、頭取時代の6年間に計48回。多忙な四半期末を除き、月1回のペースだった。
この4月に頭取を退任し、持ち株会社の社長兼グループCEOになった。3年前に「10年後にこういう銀行グループでありたい」と描いたビジョンを実現するには、まだまだやるべきことは多い。
1954年、和歌山県生まれ。76年東京大学経済学部卒業後、住友銀行入行。2002年三井住友銀行財務企画部長、06年常務執行役員、07年三井住友フィナンシャルグループ常務執行役員、09年三井住友銀行専務執行役員、11年頭取。17年4月より現職。