実質国有化への「崖っぷち」脱出

2002年3月、大阪駅前法人営業部長のときだ。東京の本部で長く仕えた専務が、突然、やってきた。何かと思ったら、「おい、元気にやっているか」と言うだけで、雑談が済むと「じゃあな、もうちょっと頑張れ」と言って、帰った。48歳になったころだ。

三井住友フィナンシャルグループ 社長 国部 毅

大阪へ赴任してまだ10カ月。何の訪問だったのか、疑問が残る。その専務は、何げない言動でも、何か意味を持つ人だった。2カ月後、本部の財務企画部長へ異動の内示が出た。「ああ、このために様子をみにきたのか」と頷く。

ただ、なぜ財務企画部長に選ばれたのかは、わからない。決算や保有する取引先の株式の扱いなどを、担う部署だ。30代を過ごした企画部時代に予算係をした時期はあるが、全く性格が違う。

6月、財務企画部長に就いた。それからの10カ月は、三井住友銀行の存亡の危機とも言える状態が続き、その起死回生を指揮することになる。90年代終わりの金融危機で、バブル時代の融資で巨額の不良債権を抱えた大手銀行に、立て直しを急がせるために公的資金が注入された。その多くは、議決権はないが、配当が優先される優先株の形だ。だが、もし配当ができなくなれば、政府は優先株を普通株に転換し、経営に介入できる実質国有化となる仕組みだった。

02年3月期決算は、赤字になっていた。着任して状況を聞くと、翌春の決算も苦しく、場合によっては配当できなくなるかもしれない、と知る。一方で、政府は厳しいルールを次々に打ち出し、「崖っぷち」に追い込まれていく。

三井住友銀行(SMBC)は01年4月に、住友銀行とさくら銀行が合併して誕生した。ただ、グループ各社の監督、連携が重要になり、財務企画部長就任から約2カ月後、持ち株会社の三井住友フィナンシャルグループ(SMFG)の設立が発表された。その立案には関わってはいないが、この持ち株会社を使って、活路を開く。

持ち株会社は12月2日に発足したが、並行して、別の銀行との合併を模索していた。合併では、どこかを存続会社にして、残りの会社は消滅する。その際、存続会社は消滅する側の資産や負債、純資産を引き継ぐが、資本金を受け継ぐかは任意で、全く継がずに「増加資本金ゼロ」にもできる。となれば、純資産が合併差益となり、配当に使えるようになる。

このルールに、着目した。

ただ、合併を模索した銀行との交渉は難航し、年末を前に報道され、挫折した。すぐに、頭取と大阪に様子をみにきた専務と協議すると、2人は即座に進路を切り替えた。当然、自分も、その選択肢は用意していた。頭取は、破綻した2つの信組の受け皿銀行を設立するとき、担当専務として即断した人だ。専務も、企画部門で、様々な件で指揮を受けた。2人とともに歩み、学んだ点が多かった。

12月25日、子会社だったわかしお銀行との合併を発表する。しかも、存続会社は三井住友でなく、わかしおにする「逆さ合併」だ。長い歴史を持つ銀行内には当然、抵抗感がある。OBの反発も、予想される。その思いはわかるが、当時、日本の株価は急落し、保有株の含み損が日々に膨れていた。

年が明けても、株価の下落は続く。結局、3月期決算で、1兆745億円の不良債権に加え、6357億円の含み損も処理した。その備えに、2、3月に計4953億円の増資も実施した。その結果、2期連続赤字にはなったが、3月17日に実施したわかしおとの合併で出した差益で配当ができた。厳しく、ドラマチックな展開だ。