「声なき声」を背中で聞いて
1987年夏、自分でも驚くほどの体験をした。職場の一角で上司に苦情を言い、応じてもらえず食い下がっているとき、涙が流れたのだ。涙とは縁がない性格だ。でも、あのときだけは特別。45歳だった。
その年の3月17日、アサヒビールは『スーパードライ』を首都圏で発売した。味、口あたり、ネーミングなど、すべてが当たり、あっという間に大ヒットとなる。全国展開していくなかで、生産が追いつかず、近畿以西とくに九州では秋口まで欠品が続いた。その九州支店の営業第一課長に、前年の8月に着任していた。担当地域は、福岡市と久留米、大牟田など福岡県南部だ。
夏の暑い日に生ビールが切れる店が出たり、キャンペーン用のミニ樽が人気を呼んでなくなることはあっても、ビール液自体が不足することは、前代未聞だ。取引先の店で、客に「スーパードライを」と言われても出せず、叱られる例が続出する。それが、そのまま部下たちにハネ返ってきた。連日、彼らと一緒に頭を下げて回る。何か問題が起こると、一番辛さを味わうのは、いつでも営業現場だ。それを、次長にわかってもらいたかった。
支店では、業務課長が地域ごとの商品配分量を決める。福岡では、次長が業務課長を兼ねていた。『スーパードライ』は、取引先の希望総数の10分の一も届かない。次長も、配分には苦労していたのだろう。でも、営業第一課では、次長が勤務経験のある北九州市地域に多めに配分している、と不満を強めていた。
ある日、ついに自分が直訴した。「本社から届く量が少ないのは、わかっている。だから、みんな、得意先に怒られても、我慢している。でも、たまには、こちらにもっと回してくれ」。後ろで声を潜め、成り行きを見守る部下たち。その声なき声を、背中で聞いていた。「ここは、簡単には引き下がれない」――さらに抗議を続けていると、思わず、涙が出た。「俺は、体を張っている。お前たちも、いろいろと言いたいことはあるだろうけど、頑張れよ」という思いがあふれたのだ。
メッセージは、十分に伝わっていた。部下たちは「あんなに上司に食ってかかって、大丈夫だろうか」と心配もした。以後、「売る商品が足りない」と文句を言うことは、営業第一課ではタブーとなる。一体感が強まって、『スーパードライ』の前年に発売され、そこそこの好評を得ていた「コクキレ」でしのいだ。