「言葉は八分」のベクトル合わせ
1988年9月、ソウル五輪のボート競技で、日本選手はエイトで9位、かじ無しペアとシングルスカルは予選で敗退した。このとき、日本ボート協会の強化部長を務めた。48歳。4年前のロサンゼルス五輪に続き、メダルに届かなかった。
ボート競技は、自分の人生の大きな柱だ。いろいろなことを学んだ。仕事にも通じることが、多い。数多くある団体スポーツのなかで、全く質が違う。大半の競技は、選手それぞれが役割を持ってプレーするが、ボートに「個人」はない。「一艇あって、一人なし」。この言葉に、すべてが表されるように、全員が呼吸を合わせて、一つになる。
人間、それぞれの能力や適性は、もちろん、違う。でも、ある目標へ向かって、ベクトルを一つにすることは、可能だ。では、どうすれば、それが実現するか。それを、一人ひとりに、自分で考えさせてみる。そんな手法を、ボートで教わった。
ボートとの出会いは1954年。父の転勤で北海道の留萌から札幌へ引っ越した年で、中学3年のときだった。北海道大学が全日本の大会で彗星のごとく優勝し、北海道中が湧いた。当時、北大に堀内寿郎さんという物理学の先生がいた。東大ボート部の出身で、ボート競技に「堀内理論」という考えを打ち出し、優勝へ貢献したらしい。地元紙に載ったその記事を読んで、「ボートというのは、いいもんだな」と憧れた。以来、「大学へ入ったら、ボートを漕いでみたい」と思い続ける。
札幌南高校から東大法学部へ進んだ。1940年3月に岩見沢で生まれ、少年時代を倶知安ですごし、北海道のおおらかな風土の中で育つ。いまでも、「自分の根っこは、北海道にある」という気がしている。そんな故郷を離れたのは、大学のボート競技で強豪の一つだった東大で、漕いでみたかったからだ。
入学式の後、野球部や柔道部などから誘われた。だが、ボートの競艇部からは声がかからない。身長が172センチ。ボートには低い、とみられたようだ。でも、合宿所へ押しかけ、入部させてもらう。4年間、練習は長く、きつかった。生まれ変わったらもう一度やるか、と聞かれたら、ちょっと考えてしまうほどだった。でも、幸運にも、60年のローマ五輪のかじ付きフォアの競技に出場した。一番前に座り、みんなと対話しながらリズムをつくる「整調」という役を務めた。「ベクトル合わせ」の源流だ。でも、予選で敗退。「どうすれば、メダルに近づけるか」――自分で、考え続けた。
大学4年になっても、就職活動はしなかった。高度成長期で、引く手あまた。でも、見向きもしない。母校に残り、競艇部のコーチになると決めていた。「何とか食べてはいけるだろう」と思っていたら、甘かった。夏を迎えて、就職先を探す。だが、中途採用をする会社は、ほとんどない。部の先輩に相談したら、あちこちに電話をしてくれて、社長が競艇部の大先輩だった積水化学に決まった。8月、東京営業所で総務担当になる。平日は仕事、週末はコーチ、という日々が、4年近く続く。66年、大阪にあった本社の人事勤労部へ異動し、コーチを退いた。
32歳のとき、東京営業所の課長になる。会社が力を入れ始めた住宅分野で、建設資材や浴槽などを扱っていた。2年目、新入社員を預かった。スチール製の物置の担当に据え、関東一円の工務店や家具屋を回らせる。折からの列島改造ブームと第一次石油危機の勃発による資材高騰で、努力しなくても、売れた。でも、それでは、新人は育たない。5課は、係長と営業マン5人、事務の女性2人の小所帯。早く「本物の戦力」にしなければならない。
「自分で、考えてみろ」――この言葉を、何度も投げかけた。目標は示してあげるが、それをどう実現するかは、自分で考えさせる。ボート競技で身につけた手法だ。例えば「担当する製品でライバル社にどう勝つか、考えてみろ」と宿題を出す。製品の展示会を開く案が出てきたら、次は会場探し。どこで、どうやるのが、最も安くすみ、一番お客が集まるか。一つの課題を乗り越えたら、少しハードルの高い目標を与える。新入社員は苦闘した。でも、自分で考えることが、身についていく。
「言葉は八分にとどめて、あとの二分は向こうに考えさせよ」――住友財閥の二代目総理事を務めた伊庭貞剛は、常々、幹部候補たちに、こう教えた。さらに「分かる者には、言わずとも分かる。分からぬ者には、いくら言っても分からない」とも言った。自分で考えさせることが、限界までの努力とともに、潜んでいた能力も引き出す。大久保流は、そんな伊庭の手法にピタリと重なる。