技術者を退けた信念からの言葉

<strong>内田恒二</strong>●うちだ・つねじ<br>1941年、大分県生まれ。65年京都大学工学部精密工学科卒業、同年キヤノンカメラ(現・キヤノン)入社。97年取締役、99年カメラ事業本部長、2001年常務、03年専務、06年副社長を経て、同年5月より現職。入社後、一貫してカメラ開発部門に籍を置き、数多くの名機の開発に携わった。
キヤノン社長 内田恒二●うちだ・つねじ
1941年、大分県生まれ。65年京都大学工学部精密工学科卒業、同年キヤノンカメラ(現・キヤノン)入社。97年取締役、99年カメラ事業本部長、2001年常務、03年専務、06年副社長を経て、同年5月より現職。入社後、一貫してカメラ開発部門に籍を置き、数多くの名機の開発に携わった。

1981年4月、キヤノンは自動露出の一眼レフカメラ「AE-1プログラム」を売り出す。5年前に発売し、電卓事業の不振で無配に転落した会社を救った「AE-1」を、さらに進化させた機種だ。復活を定着させるための、戦略商品だった。

その開発期間中、福島工場で製品技術課長として、量産開始に備えていた。そのころ口にした言葉を、いまでも、鮮明に覚えている。「工場には『待つ』という言葉はない。動かすか、止めるかのどちらかだ」。

川崎市の工場に陣取っていた開発部隊に対する発言だ。実は、彼らがつくった試作品が、なかなか思うような出来栄えにならず、ついに開発責任者が「もうちょっと待ってほしい。時間をくれ」と言ってきた。でも、発売時期は決まっている。販売会社も、そのつもりで待っていた。

モノづくりでは、開発から発売までの日程をきちんと守ることが、すごく大切だ。カメラの場合、進学や卒業、就職、クリスマスなどの季節にたくさん売れるから、3月か9月に発売する計画を立てる。それが狂えば、競争相手に先行され、全く売れないケースまで出る。

だから、開発期間の延長要請は、蹴った。相手は驚いた。当時、開発にあたっていた技術者らは、社内で最も発言力があった。何でも、思うようにしていた、と言えるほどだ。その連中の言い分を、退けた。「社内で正式に決めた事柄を、安易に変えることはいけない。約束は約束、ルールは守れ」。モットーとするルール遵守を、明快に主張する。40歳になる年のことだった。

4年前に、福島工場に着任した。稼働してまだ年月が浅く、3つの工場からの寄せ集め部隊だったため、操業や点検などの手法がバラバラだった。だから、生産を軌道に乗せるのに、苦労が続いていた。そこで、共通ルールをつくろうと提案する。新人からベテランまで全員を集め、話し合って決めた。結論は「3工場のやり方の中で、それぞれ一番いい手法に統一する」。

決めた以上、守らせる。とくに、品質とコスト管理、出荷に関する決定事項については、徹底した。部門間の連絡表や報告書、打ち合わせや会議の議事録などに全部、管理番号を付けて、それぞれに保管させた。その種のものを、管理職が頭に入れたつもりで形に残さないでいると、大きなミスや損失につながる。ルールができてからは、管理職が不在でも確認ができ、何かあったときの対応が早くなる。「情報の共有化」であり、プロセスの「可視化」。ルールは、約1年で浸透した。

「智貴免禍」(智は禍(わざわい)を免(まぬか)るるを貴ぶ)――中国の『三国志』に出てくる言葉で、本当の智とは、災難を未然に防ぐことを第一にする、との意味だ。無駄な争いを避け、問題が広がる前に手を打っていく重要さを、説く。内田流のルールづくりとその徹底は、この「免禍」に重なる。

次に、福島工場に「量試室」をつくった。量試とは量産試作の略。開発部隊から送られてきた試作品通りにつくってみて、不具合がみつかったら、早く設計し直してもらう態勢をとる。メンバーを開発拠点へ派遣し、改善作業に参加もさせた。さまざまなデータを共有し、発売までのスケジュールを開発段階で大きく食ってしまった際に、それを工場で取り戻す。この仕組みは、いま、キヤノンのすべての工場の基本形となっている。前号で触れた自動焦点の一眼レフカメラ「EOS」も、同じ仕組みから生まれた。

各部署の自己都合を排し、ルールを守らせる。開発と生産の両部隊が情報を共有し、スピードアップを図る。いずれも、この連載でしばしば触れる「全体最適」の追求につながる。その視点を、誰に教わるでもなく、40歳になるまでに、福島で身につける。だから、「AE-1」の進化型の開発のときにも、あの言葉が自然に出た。