自然な所作で役員にも直言

<strong>澤部 肇</strong>●さわべ・はじめ<br>1942年、東京都生まれ。64年早稲田大学政治経済学部卒業、東京電気化学工業(現TDK)入社。84年経営企画室副部長、91年記録メディア事業本部欧州事業部長、96年取締役記録デバイス事業本部長を経て、98年から2006年まで社長を務める。06年より現職。
TDK社長 澤部 肇●さわべ・はじめ
1942年、東京都生まれ。64年早稲田大学政治経済学部卒業、東京電気化学工業(現TDK)入社。84年経営企画室副部長、91年記録メディア事業本部欧州事業部長、96年取締役記録デバイス事業本部長を経て、98年から2006年まで社長を務める。06年より現職。

1983年5月、財務担当専務、経理部長と3人で、英国へ飛ぶ。41歳。社長室企画課長として、国際化戦略の中核にいた。前年6月のNY上場に続き、今度はロンドン証券取引所へ上場する。そのセレモニーに、出席するためだった。

ロンドンでは、電子部品の営業担当の駐在員が、3人の世話をしてくれた。昼間は名の知れた場所を案内し、夜もバーで相手をしてくれた。だが、電子部品の営業拠点に、日本人は彼一人。出張者の世話を続けていられるほど、余裕はない。それなのに、専務が彼に、翌日のセレモニーへの案内ばかりか、ホテルでの朝食の相手役まで求めた。

思わず、口を挟む。「こちらは我々がやるから、キミは日常の仕事へ行って下さい」。駐在員には翌日、客と会う約束があることを聞いていた。セレモニーのほうは、別の子会社から英国人社長も出席するから、それで十分だ。そう思ったのに、専務が言った。「そんな約束と、オレのほうと、どっちが大事なんだ」

駐在員は、黙っていた。代わりに「いや、お客との約束のほうが大事でしょう」と言うと、「お前に聞いているんじゃない」と怒鳴られた。

「いい加減にして下さい。彼のところは、彼しかいないんですから」と言い返す。結局、駐在員が無理して時間をやり繰りすることで収まったが、あとで彼がホテルの部屋へやってきた。ビールを一気に飲み干し、「あー、スカッとした。明日、一緒に行きますよ」と笑った。それを、みて、ようやく腹の虫が収まる。

常々、部下たちに「機能は対等」と繰り返していた。肩書をカサにきて、目下の主張を押しつぶすようなやり方を全面否定。「お互い、仕事の役目で物を言うのだから、その機能に上下はない。言葉は丁寧でなければいけないが、たとえ相手が誰であろうと、言うべき事は言わなければいけない」と言い切る。ロンドンでの出来事も、「機能対等」で言えば、ごく自然な所作だった。

その数年前、上司に連れられ、松下電器産業(現パナソニック)へ行ったときだ。面会相手を待っていると、ガラス越しに、松下の人たちが論争しているような光景がみえた。どうも、部下らしき人間が、上司らしき人間を押し込んでいる。脇にいた上司が言った。「澤部くん、みろよ。松下では、ああいうふうに仕事の上では機能対等で、若い者でも堂々と言えるんだ。うちも、そうしよう」。頷いて、実践する。ある日、そのつもりで経営会議で常務を言い負かすと、「お前、会議の事務局員の分際で何だ」と怒られた。だが、社長が「機能対等」を支持した。

「不知而言不智、知而不言不忠」(知らずして言うは不智なり、知りて言わざるは不忠なり)――よく内容を知らないのに口にするのは、賢いことではない。内容を知っていながら言わずにいるのは、臣としての道に背く。中国の古典『韓非子』にある言葉で、半可通を戒めるとともに直言を求めた教えだ。澤部流の「機能対等」は、この教えに通じ、TDKの企業文化になった。

ロンドン上場も懐かしいが、ニューヨーク上場も忘れられない。82年6月15日、マンハッタンで社長とともにリムジンに乗り込み、ウォール街へ向かう。証券取引所に近づくと、社長が声を上げた。指先をみると、星条旗と日章旗の間にTDKの社旗が懸かっている。取引所に入ると、電光掲示板に「Welcome TDK」の文字が流れた。「社長、みて下さい」。実は、この言葉には、深い意味がある。だが、社長は気づかぬまま、挨拶に立った。日本語で話していたのに、声が震えている。日本企業で八社目の上場。自分も、脚が震えるくらい、感激した。

帰国の機内で社長に話しかけた。

「機能対等」だから、敬語は使っても、遠慮はない。電光掲示板のことに触れ、「社長、あれですよ、社名変更したほうがよろしいんじゃないですか。提案させて下さい」。「しなはれ」との答えが、返ってきた。