「土壌」を収集する毎朝の聞き取り
原子力プラントの設計部で、入社9年で主任級になってから40代半ばで部長級になるまで、毎日、続けたことがある。当初は、プラントの配管の設計グループで、5人前後の部下たちと朝一番に集まって、一人ずつに「昨日は何をしたの?」と問いかけた。いろいろ意見を交換しながら、気になる点があると、「だけど、それでいいの?」と加える。次に「今日は、何をするの?」と尋ねた。聞き終わると、「昨日やったことの結果は、どうするの?」と、何げなくフォローアップを促す。
簡潔な確認の繰り返し。普段からずけずけ言うし、声も大きい。だから、部下たちには怖い存在だっただろう。彼らも一生懸命に仕事をしているのに、うるさかったかもしれない。でも、そんなことを慮っても、仕方がない。配管は、1基の原発で延べ100キロメートルにも及ぶ。些細なことが、すべてをマヒさせることもある。ましてや、「安全」が絶対の原発。何でも、ちゃんと聞いておかないと、取り返しのつかないことにもなりかねない。課長級になってからは、もう一つのグループ5、6人とも、毎日、続けた。
新入社員のころ、福島第一原発で3つの原子炉の建設を手伝った。当時は、米国のゼネラル・エレクトリック(GE)から技術を導入し、GEの設計図通りに進めていた。すると、並行して建設されていた静岡県の浜岡原発で、配水管から肉眼ではみえないほど細かなひび割れが発見された。GEは「そこだけの特異な現象だ」と答えた。ところが、ほどなく、ほかの配管でもみつかった。
社内に、原因究明と対策づくりのチームができる。GEの技術は、他社も導入していた。改良のため、国と電力会社が加わった委員会が発足する。委員会は、ひび割れや溶接部の劣化など、様々なトラブル例を集めた。いろいろと、意見も求められた。出てきた改善案を、福島第二原発の設計に、反映させていく。一つの答えにたどりついていなければ、複数の安全策を打った。のちに、49歳で部長として第二次の委員会を担当したとき、そうした複数方式を、日本に定着させた。
一つ一つのトラブルと改善策の積み重ね。その体験が、40歳を挟んで続けた「毎朝のミーティング」の底流にある。
「泰山不譲土壌故大。河海不擇細流故深」(泰山は土壌を譲らず、故に大なり。河海は細流を擇ばず、故に深し)――高い山も、小さな土くれを放さずに集めてきたからできた。大きな河や大海も、小さな流れも捨てずに集めてきたからできた。秦の始皇帝に仕えた李斯の言葉。『18史略』に収められている。何事も、小さなことを絶えず積み重ねていくことが大事だ、との戒めで、佐々木流は、この教えに合致する。
1949年6月、東京・新宿で生まれる。早大理工学部の機械工学科へは、自宅から歩いて通えた。子どものころからモノづくりが好きで、小・中学校時代は飛行機づくりに熱中する。エンジンと操縦用のワイヤーが付いた「Uコン」は、自前の設計で手がけた。大学時代は、理工学部のボート部で活躍する。
72年4月に入社。試用期間が終わると、原子力部門に配属される。それまで全く縁がなかったが、大きな機械がつくれるし、社会に貢献できそうだと思って、志望した。社長を務めた土光敏夫さんが「東芝がつぶれても、原子力はやる」と決断してから6年。課長以下の平均年齢はまだ20代で、自由に物が言える職場だった。以来、役員になるまで33年間、原子力ひと筋に歩む。
福島原発の建設支援に出て、約1年後に戻ると、原発国産化の熱気が高まっていた。第一歩は、GEなどから受け取ってきた仕様書とは変えて、日本の工業規格(JIS)に則した形で、数字もメートル法に換算した独自の仕様書づくり。その配管部分を書くように、先輩を差し置いて命じられた。上司は「大学で、図面くらい書いたことがあるだろう。新人のほうが、純粋な作業マインドがあるのでは」と考えたようだ。