資金一括調達で500社を説得

朝田照男●あさだ・てるお 1948年、東京都生まれ。72年慶應義塾大学法学部卒業、丸紅入社。入社以来、ほぼ一貫して経理・財務畑を歩む。2002年執行役員財務部長、04年常務、06年専務、08年より現職。
丸紅社長 朝田照男●あさだ・てるお 1948年、東京都生まれ。72年慶應義塾大学法学部卒業、丸紅入社。入社以来、ほぼ一貫して経理・財務畑を歩む。2002年執行役員財務部長、04年常務、06年専務、08年より現職。

入社して40代が終わるまで、ずっと、財務畑ですごした。

よく、「財務ひと筋で、営業の経験がない」と言われるが、これは、妙な物言いだと思う。資金や財務の部門の仕事も、実は、営業の要素を持っている。鉄鋼の営業や化学品や繊維などの取引をしていないからといって、「営業経験がない」などと思ったら、大間違いだ。

財務マンが扱う「カネ」も、まさに商品であり、出し手と取り手の間の交渉、信頼関係や駆け引き、あるいは商品知識や相場の先行きの読みなど、どんな「モノ」の商売と比べても劣らない営業力が求められる。それだけではない。総合商社のように巨額の資金を動かし、異境の地でビジネスを大展開する企業は、「カネ」に関する営業でつまずいたら、存続すら危うくなる。その一例が、前号で触れた、アジア通貨危機が招いた経営危機だった。

「財務も、たいへんな営業だぞ」。社内でそう繰り返してきたせいか、上司に「お前は、負けず嫌いだな」と言われ続けた。たしかに、自分でも、そう思う。だが、心底、確信しているのだ。できるだけ安いコストで、資金を調達する――これは、財務にとって、永遠のテーマだ。

40代の前半、その大きなテーマに挑戦した。約500あった子会社が必要とする資金を、すべて本社で調達する「グループファイナンス」の導入だ。子会社よりも親会社のほうが信用力があるから、金利も手数料も安い。だから、本社で一括して資金を集め、各社に配れば、かなりのコスト減になる。考えれば、しごく当たり前のことだけど、当時は、子会社からみると「親会社の介入」「暴挙」と映った。

500社にも、それぞれ財務の担当者がいた。彼らは、取引のある銀行や証券会社の担当者と飲み、ゴルフをしながら、情報を交換する。それが大事な任務だと思っていたし、大きな楽しみでもあった。グループファイナンスになると、そんな機会が全部なくなってしまう。強い抵抗が生まれて、おかしくない。でも、説得には、自信があった。

小学校のとき、先生に「しゃべる能力は、大事だぞ。同じことをしゃべっても、相手にうまく聞こえるのと、言っていることが『よくわからない』と思われるのでは、同じ主旨のことを話しても全く結果が違う」と教わった。いつも、それが、頭の片隅に残っていた。お陰で、学生時代からプレゼンテーションを大事にしてきた。その影響か、いつの間にか、口調まで早くなる。グループファイナンス導入時にも、周囲が「立て板に水だな」と驚くほどの説得振りで、押し切った。

新しい財務手法には、ロンドンの金融街「シティー」でも挑んだ。英国には1992年4月から4年間駐在。資金を調達し、欧米市場で運用する丸紅インターナショナルファイナンス(IF)の社長を務めた。95年、46歳のときだ。「ミディアムターム・ノート」と呼ぶ期間3カ月~5年の普通社債を、総額50億ドルまで、丸紅IFの裁量で発行できる仕組みをつくった。1回1回、社債を発行するたびに本社の承認を得る手間をかける必要がなければ、市場の動きに敏感に反応できるし、自分たちで金利の先行きを読んで、低コストのときに資金を確保しておくこともしやすい。

この手法では、本社は社債を保証する必要がなく、関係者に「丸紅IFの財政状態を、きわめて優良な状態に保つことを、丸紅東京本社が確約します」といった念書を渡すだけでよかった。社債の償還まで保証していないから、発行残高が増えても本社の財務を悪化させない。「シティー」でも好感された。日本の勤務時間に合わせて決済を求める「夜間仕事」が不要となり、交渉などがすごく速くなる。自分たちも、時差を無視した本社からの電話がめっきり減って、本場のゴルフ場や競馬場へ楽しみに行く回数も増えた。

グループファイナンスが軌道に乗ると、着任時に12億~13億ドルだった運用規模が、帰国時には45億ドルにまでなっていた。利益も、700万ドルから2000万ドルへと膨らんだ。丸紅IFは日本から5人、現地採用6人の小世帯。それが、10億円単位の利益を出す。「専門性」の強さだった。