「惨敗」を招いた情報力の欠如

<strong>大久保尚武</strong>●おおくぼ・なおたけ<br>1940年、北海道生まれ。62年東京大学法学部卒業、同年、積水化学工業入社。89年取締役、93年常務、97年専務、99年1月副社長、同年6月社長。2009年3月より現職。大学時代にボート競技の日本代表としてローマ五輪に出場。現在、社団法人日本ボート協会の会長も務める。
積水化学工業会長 大久保尚武●おおくぼ・なおたけ
1940年、北海道生まれ。62年東京大学法学部卒業、同年、積水化学工業入社。89年取締役、93年常務、97年専務、99年1月副社長、同年6月社長。2009年3月より現職。大学時代にボート競技の日本代表としてローマ五輪に出場。現在、社団法人日本ボート協会の会長も務める。

手元に、すっかり変色した原稿のコピーがある。表紙に、「外部情報に立脚した企業戦略――情報部(仮称)設置の提言――」とある。筆者は「人事勤労部 大久保尚武」。日付は1982年5月13日だから、42歳のときだ。当時の社長に提出した提言の写しである。

そのころ、通産省(現・経済産業省)が最先端技術の研究開発を支援する「次世代産業基盤技術研究開発制度」を設けて、12ほどの大プロジェクトに民間企業を集め、かなりの予算を投入していた。だが、積水化学は、1つのプロジェクトにも参加していない。それどころか、制度の存在すら、知らずにいた。あるとき、それが分かり、会社が「すごく情報にうとい」と痛感する。

住宅事業に大きくシフトし、利益も徐々に住宅に頼る形になったころだった。「本業」のプラスチック事業は弱体化し、第二次石油危機後の80年代初めには「業界で、二流に落ち込んだのではないか」と思うほどだった。そのため、同僚らと「このままでいいのか」と議論していると、社長の耳に入ったのか、「じゃあ、何をすべきか、お前がまとめてみろ」と指示が出た。その答えが、冒頭の原稿だ。紀伊國屋で買った200字詰めの原稿用紙で36枚。ずっと、コピーをとってある。

「企業としての魅力が、以前よりだいぶ薄れてきている」――提言は、厳しい現状認識に始まる。外部から二流企業とみられるだけでなく、従業員の多くもそう感じているようだと憂い、原因を、収益力の弱体化や売り上げの伸び鈍化だけでなく、世間が「セキスイは、時代の流れから取り残されつつあるのではないか」と考えているためだ、と分析する。通産省の次世代技術のプロジェクト・メンバーにも入らず、最先端技術から遠のいて、技術陣の志が低下した、とも指摘する。

一方で、70年代の「新規事業参入惨敗の歴史」を分析。5つの事業の名を挙げて「惨憺たる失敗」「死屍累々」と評し、「問題は、そのムダなコストだけにとどまらず、5つの事業に四苦八苦している間に世の中は違う方向へ進んでいた事実だ」と断じた。原因は、最初から分野を選び間違えたか、あるいは、否定的な情報をすべて無視した「ひとりよがりの決断」だったのか。それに対し、「企業は、時代の流れにうまく乗らなければならない」「成長分野に、身を擦り寄せていかなければならない」とした後で、「兎が大きな耳を立て、敏感に周囲の物音に反応するように、外部に広くアンテナを張りめぐらし、外部環境の変化・動向を的確に読み取って行動していかなければならい」と結論づける。

そこで提言したのが「情報力の強化」だ。集まった情報を分析し、トップに具申する部署の新設を社長に求めた。表題にある「情報部」(仮称)が、それだ。「本社のある大阪にではなく、すべての情報が集まる東京に情報部をつくりたい」。自社の所管官庁である通産省の動きすら全く知らずにいた会社を、大きく変身させる提案だった。当時、競争相手の大手化学企業は、どこでも、そういう情報の収集、分析をやっていた。彼らは、当然、次世代技術のプロジェクトにも参加していた。

「識時務者在乎俊傑」(時務を識るは、俊傑に在り:じむをしるは、しゅんけつにあり)――『三国志』の主人公の一人である劉備に考えを問われた司馬徽(しばき)が答えた言葉で、「いまがどういう時代であるかをきちんと把握し、何をするべきかがよくわかっている人が、優れた人間だ」との意味だ。時代の流れを的確につかみ、手を打つべきことを見抜く。直言リポートは、この逸話に重なる。ただ、司馬徽はそんな俊傑として、のちに劉備の軍師となる諸葛孔明らを紹介したが、社長は大久保さん自身に「俊傑」となることを求めた。情報力の強化の担当を、またも「お前がやってみろ」と言われたのだ。

提言から2カ月後、大阪本社にあった企画部の別室をつくる形で東京企画室を新設し、その室長となる。まず、情報の収集に注力した。対象は、官庁や大学、同業他社、海外など。始めてみると、メーカーの新規事業には、やはり技術力が中核にないとだめだ、と思い知る。そこで、中堅の技術陣を企画室に集めた。