熱気に包まれた「修善寺合宿」

人集めは、得意だ。入社して20年のうち、12年間は人事部門にいた。社内の人間は、かなり知っている。当時、全体で約4000人いたが、入社後に何をやってきて、いまどんな仕事をしていて、家族構成はどうかなど、3000人は覚えていた。その中から、一本釣りをする。ただ、ある日突然、「あの人間をくれ」というわけには、なかなかいかない。どの部署でも、優秀な人間ほど、出すことに抵抗する。だから、日ごろから、各部課長に「下ごしらえ」をしておく。それが肝心だ。

1年半ほどたち、大型の新規事業を推進するための開発本部が発足した。東京企画室長のまま、その本部の企画部長も兼務する。先端医療や電子回路の基盤材など、新規事業を展開する枠組みづくりを始めた。ここで、もう一つ、気がついた。情報から考え出したプロジェクトの受け皿に、首都圏で研究開発体制の強化が必要だった。当時、大阪に研究所があり、社内は「それで十分」としていた。そのムードを、打ち破る。

85年1月、部下に「首都圏に研究所をつくるから、構想を考えろ」と指示を出す。いつものように、目標は示すが、どう具体化するかは、部下に考えさせる。2カ月後、部下が候補地を選んできた。その一つ、茨城県の筑波北部工業団地をみて、そこに研究所を設立すると決めた。

6月、社内から横断的に集めたチームで、伊豆の修善寺で合宿する。研究所の中身をどうするか、論議するためだ。2泊3日。外では大雨が続いていた。でも、会議は熱気に包まれ、雨など気にしない。技術屋のリーダー格が「次の日本の産業の核はエレクトロニクスだ。われわれは化学にとどまらず、そこの力もつけなければいけない」と主張した。待っていた答えだった。筑波の研究所に「応用電子研究所」と命名する。

「時務を識る」。そういう人間が何人もいるとわかり、うれしかった。

48歳のとき新製品向けに技術開発を立案する総合開発室を率いた。情報部設立の提言、首都圏での研究所設立などの延長にある、当然のゴールだ。ここで、14のプロジェクトを考える。その中に、建築用の「高機能中間膜」がある。独自の技術でつくった膜を、2枚の薄いガラス材で挟んだ三重構造のガラス板にして、音を遮る。従来は、密着した構造に、なかなかできなかった。でも、新たな研究体制で突破する。

高機能中間膜は、住宅やビルではそうヒットはしなかったが、自動車向けで大きく開花した。遮音だけでなく、遮熱の効果も大きく、車の窓ガラスなどに使われている。特許を取得し、世界市場を独占中だ。

実は、14のプロジェクトのうち残ったのは4つだけ。技術的な難しさより、事業化の壁に阻まれた。その体験から、新規事業には2つの眼力が要ると知る。1つは、技術のネタが本物で、ある水準までいけば世界的なものになり得るかを見分ける眼力。でも、これは、1割の比重しかない。大事なのは、その技術で事業化し、生産して販売するところまでもっていけるかどうかの眼力だ。

社長になった翌年から、そういう眼力を持つ人間を見つけだすことに力を込めた。>>前回触れた「志塾」を含め、多くの人事制度を「自ら手を上げて参加する」仕組みへと変えた。普通に階段を上がってくる人物だけをみていては、限界がある。

昨春、会長に退いた。でも、頭はいまも、そんな人材発掘に向かう。そして、社員たちが自分で考え、どんな答えを出してくるか。それを、いつも、待っている。

(聞き手=街風隆雄 撮影=門間新弥)