「がむしゃら」から「顧客志向」へ
1980年代初め、40歳になるころだ。仙台支店で、営業担当の課長を務めていた。課員たちが顔をそろえるのは、毎週月曜日朝の会議のときだけ。あとの日は、全員が担当地域を巡回する。自分も、管内を回り、各地で夜をすごす。そして、翌朝6時、ビジネスホテルや旅館にある公衆電話の前に立つ。手に、10円玉があふれていた。
部下たちの宿泊先に、次々に電話を入れる。泊まった部屋から交換台を通すと、いったん切って待つケースが多かった。もどかしい。電話に部下が出ると、まず「元気か?」の言葉が出る。アサヒビール(当時の社名は朝日麦酒)の国内シェアは10.7%と、入社時の半分以下になっていた。しかし、「できたか?」とか「やったか?」といった営業の成果を問う話はしない。ねぎらい、励まし、悩みを聞き出し、相談にアドバイスを与えた。
1日を、気持ちよく始めてもらいたい。そんな思いがあった。部下たちは、早朝電話を「目覚まし時計」と名付ける。営業マンの中に新入社員が1人いて、福島県会津地方の担当だった。山形県出身で、隣県なら溶け込みやすいかと思われたが、実は、壁にぶつかっていた。いくら酒屋を回っても、相手にされない。思い悩む日々。でも、荻田コールに救われる。いま、彼は、それを「自殺を思いとどめさせる『命の電話』のようでした」と振り返る。
「会社を動かしているのは、現場の人たちだ」
入社4年目から子会社のアサヒ飲料の副社長へ転出する2002年9月まで、34年間、営業現場ひと筋ですごした。そこで得た、確信だ。