議員でなくても、やれることをやるだけ
1995年4月28日から30日まで3日間をかけて、平壌メーデー・スタジアムにて「平和のための平壌国際体育・文化祝典」が開催されることとなりました。
プロレスのイベントには2日間で38万人という歴史に残る数の観客が集まってくれました。会場に来られなかった国民も、テレビでイベントの様子を見てくれたらしく、北朝鮮のテレビの視聴率は99%になったという話も聞きました。あの日以来、北朝鮮で私のことを知らない人はいなくなりました。のちに政府高官からは「あの一日で国民の日本に対する反日感情が消え去った」とまで言われました。
私は北朝鮮が世界中から1万人以上という、多くの観光客とマスコミを受け入れてくれたことに感謝しました。政治や国際情勢でいろいろな問題がある中、「誤解があるならば直接見てもらえばいい」という私の言葉に賛同してくれて、北朝鮮の歴史に残る人数の海外からの客を迎えてくれたのが本当にありがたかったのです。
北朝鮮でのイベントの後、私は2期目を目指して参議院選挙に出馬しましたが、最終的に落選してしまいました。なかには根も葉もない噂レベルのものもありましたが、スキャンダルが相次いだせいで党のイメージは地に落ちていたし、投票率も史上最低でした。あっけらかんとしているように見える私だったが、心の中では相当ショックを受けていました。
しかしいつまでも腐っているつもりもありません。私がぶちあげた「スポーツ交流」というスタンスは、議員だから議員でないからとかそういうものではないのです。日朝関係はいまだに大きな進展はありません。たとえ国会議員でなくなったとしても、私は私がやれることをやるだけなのです。
その後、再び訪朝した時、北朝鮮側から再び平壌でプロレスのイベントがやりたいという申し入れがありました。これが実現すれば、滞っている日朝関係の解決の糸口になるのかもしれないと考えました。スポーツ交流を通じての世界平和、そのきっかけが北朝鮮から発信されるかもしれないと。しかし悲しいことに、その後の「テポドン問題」などで日本の北朝鮮へのイメージはさらに悪化してしまいました。だが、これは私が何度も北朝鮮へ行く理由としては、数ある理由の中のひとつにすぎません。
その後も故金日成主席死去5周年大会や、金正日総書記誕生記念イベント、テコンドー大会のゲストまで様々な式典に招かれる度に、今日に至るまで私は北朝鮮へ足を運び続けました。なぜ私が足繁く北朝鮮に通うのか。なかには北朝鮮の太鼓持ちだとか私の訪朝理由を知りもせず、心ない言葉を浴びせてくる人もいます。そういう人に私は問いたい。「この数十年で一体日本は何ができましたか?」と。
日本の政治家は表面的な先入観しかないのか、それとも難しい問題に直接対峙せず、自分の任期中はうやむやにしておこうというつもりなのか、やたらと拉致と制裁ばかり口にします。とにかく北朝鮮というだけで悪者と認識している人も多い。確かに表面には出てこない水面下で動く裏の外交があったり、日本とアメリカの関係を気にするというものはあります。しかし結局、究極は最終的に二国間で話し合わなければ解決するはずがないのです。よその国に頼んだり、丸投げする話ではないのです。誰かが動かなければ、10年経っても100年経っても状況は変わるはずがありません。私はただその「きっかけ」を作り続けているだけなのです。
※本連載は書籍『闘魂外交』(アントニオ猪木 著)からの抜粋です。