朝鮮ナンバー2・張成沢が処刑されたことで、2013年11月に会談したアントニオ猪木参院議員は「最後に張成沢と会った日本人」となった。「闘魂外交」は、日朝関係の未来をどう描くのか。
作家、元・外務省主任分析官 
佐藤 優氏

アントニオ猪木参議院議員には、人の魂をつかまえる特殊な才能がある。ソ連時代、プロレスは資本主義社会の腐敗した見せ物で、スポーツではないとされていた。プロレスの興行が行われることはもとより、テレビ放映もなかった。ただし、ロシア人は格闘技好きだ。闇で流通している16ミリフィルムでプロレスが紹介されていた。それだから、格闘技好きのロシア人は、アントニオ猪木×モハメッド・アリの異種格闘技を知っていた。ロシアの政治エリートは、アントニオ猪木にあこがれていた。

猪木氏は、スポーツ平和党党首兼参議院議員としてモスクワをよく訪れた。そのときのアテンド係が、当時、大使館の3等書記官だった私だった。猪木氏は、「日本の国のために役立てるならば、何でもやるから、オレを使ってくれ。あんたは、ロシアの地べたを這いつくばって情報を取っているようだから、きっとオレを上手に使うことができる」と言うので、私は面倒なお願いをした。当時、エリツィン大統領の側近で、シャミール・タルピシチェフというスポーツ担当大統領顧問兼スポーツ観光国家委員会議長(大臣)がいた。クレムリンでは大統領執務室の隣に彼の部屋があるので、いつでもエリツィンに会える関係だ。大統領府高官と大臣を兼任しているのもタルピシチェフだけだった。各国の大使が面会を申し入れても会ってくれない。

ゴルバチョフ時代、エリツィンは失脚したことがある。そのときは、家族以外のほとんどすべての人がエリツィンから離れた。ラトビアの避暑地で休暇をとったときも、誰もエリツィンと話をしない。そのとき、偶然、テニスのナショナルチームのコーチを務めていたタルピシチェフも、ラトビアで休暇をとっていた。2人は意気投合してテニスをし、友人関係はモスクワに戻ってからも続いた。最も苦しいときにリスクを負って付き合ってくれたタルピシチェフにエリツィンは恩義を感じ、権力を取った後に最側近に据えたのである。