慶喜はごく一部の者だけを連れて逃亡

1月5日には、旧幕府側は伏見から5キロほど南の淀まで後退します。幕府軍は淀城を拠点に立て直しを図ろうとしますが、淀藩に入城を拒否されます。すでに、幕府方の士気はおおいに落ちていました。

そして、1月6日には、淀川対岸の山崎に砲台を構えていた津藩藤堂家が寝返ります。藤堂軍は、旧幕府方側面を砲撃、これにより幕府方は総崩れとなりました。

そして、大坂城で、幕府側敗走の知らせを聞いた徳川慶喜は、この日の夜半、松平容保らごく一部の者だけを連れて、城を脱出します。

慶喜は、その夜は天保山沖のアメリカ軍艦内で過ごし、翌7日には旧幕府の軍艦「開陽」に乗り移り、江戸へと逃げ去ります。慶喜の逃亡により、総大将を失った旧幕府方の敗戦は決定的となりました。

慶喜が江戸へ逃亡したことで、大政奉還後の政治戦にも完全決着がつきました。新政府が今後の政権を担当することが、この数日間で確定したのです。

もう一戦できたのに、なぜ慶喜は逃げたのか

では、徳川慶喜は、なぜ逃げ出したのでしょうか? まず、その時点の戦力を分析すると、旧幕府軍は鳥羽・伏見の戦いで惨敗を喫したものの、依然、最新銃器で武装した旧幕兵を温存していました。態勢を立て直せば、もう一戦する力は十分に残っていたのです。

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それなのに、慶喜が逃げ出したのは、彼の性格によるものとしか、説明のしようがないでしょう。慶喜は、第二次長州戦争でも、局地的な敗北が続くと、戦争継続をあきらめています。今回も同様で、鳥羽・伏見の敗北で、彼にとってはすべてが終わったように思えたのでしょう。

また、慶喜の逃亡には、イギリス公使パークスの介入が影響を与えていた可能性もあります。パークスは日本国内が内戦状態に陥ると、貿易に支障が生じ、英国の国益が損なわれるとみていました。

とりわけ、大坂が戦場となると、近くの兵庫港に戦火が飛び火しかねません。そこで、パークスは慶喜に書簡を送り、大坂が戦場となるなら、居留民保護と正義のため、イギリス兵の投入も辞さないと恫喝したのです。慶喜はこれにも恐怖して、大坂城を捨てたと考えられます。

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