西郷が仕掛けた「江戸市中の攪乱」
その後、慶喜は、江戸から小栗らが編成した軍隊を呼び寄せ、フランス、イギリス、アメリカ、プロシア、オランダ、イタリアの6カ国の公使と次々と謁見、その場で、日本の外交権が依然徳川家にあることを宣言します。
それは、フランス公使ロッシュの提案を受け入れた外交戦術であり、慶喜はこの時点でまだまだやる気満々だったのです。
一方、西郷は、幕府軍と武力的に衝突しても勝てるとみていました。ただ、慶喜が表向き、新政府に対して恭順の姿勢を示している以上、一方的に慶喜打倒を宣言すると、薩長側が大義名分を失う恐れがあります。
そこで、西郷は、徳川側から開戦させようと、挑発作戦に出ます。その作戦のひとつが、江戸市中の攪乱です。江戸に攪乱分子を送り込んで、幕臣らを憤激させ、先に仕掛けさせて、戦争状態に持ち込もうという作戦を実行したのです。
西郷の陰謀は、すでに大政奉還直後からはじまっていました。西郷は、薩摩藩士の益満休之助、伊牟田尚平、江戸の郷士・相楽総三らに、江戸でのテロ煽動を指示したのです。
薩摩藩邸焼き討ちで西郷の思うつぼに
彼らは江戸に赴いて、浪士や無頼漢を集め、狼藉行動を重ねます。富豪の家に押し入り、大金を強奪する者もいれば、殺人を犯す者もいました。そして、彼らは危うくなると、江戸の薩摩藩邸に逃げ込みました。
藩邸は、現在の大使館内と同様、治外法権となっていたので、そこに逃げこめば幕吏の手が伸びることはありません。当然、幕吏・幕臣の間で、薩摩憎しの声が高まっていきます。
12月になると、テロは大規模化し、薩摩配下の狼藉者が江戸市中に火をつけるという噂が広まり、じっさい23日には江戸城二の丸が火事に見舞われました。これで、江戸市中では薩摩憎しの声が頂点に達しました。
小栗も含めて強硬派が賊の総検挙を叫び、25日、庄内藩兵を主力とする約2000の兵が薩摩藩邸を包囲し、砲撃によって薩摩藩邸を焼き払いました。
薩摩藩邸焼き討ちの情報は、すぐに大坂城の幕府方の将兵にも伝わり、彼らの気勢は大いに上がります。「我々も江戸に負けてはいられない、薩摩討つべし」と、大坂城内は沸騰します。
慶喜はその声に押されて、薩摩との開戦を事実上認めます。その展開こそ、西郷が待ちに待っていたものでした。

