太平洋を初めて横断した咸臨丸の船内では何が起きていたのか。往路は荒天が続き、勝らは船酔いにより船室で寝ていて、実際に船を動かしたのは、同乗したアメリカ海軍だったという。日本史深掘り講座が編集した『小栗忠順とジョン万次郎 同年<1827>生まれの二人が見た二つの日本』(青春出版社)より、紹介する――。(第2回)
江戸に召しだされ、開国の必要性を説く
土佐の漁村に生まれたジョン万次郎(中浜万次郎)は、出漁中に漂流したものの、米捕鯨船に助けられ、渡米。嘉永4(1851)年に帰国しました。
万次郎は嘉永6(1853)年、江戸に向かうことになります。幕府から出府を命じられたのです。
その背景には、むろん、同年6月3日、ペリーの黒船が来航したことがありました。米国海軍のペリー提督が4隻の黒船を率い、大統領の親書をもって来航し、開国を求めてきました。
そのペリーに対して、徳川幕府は1年後に返答すると約束して時間を稼ぎ、いったんはペリーを追い返すことに成功したのです。
その直後、仙台藩の大槻磐渓という蘭学者が、老中首座の阿部正弘に対し、アメリカをよりよく知るため、万次郎を呼び寄せることを提案します。
阿部は、長崎奉行からの報告書を読んで、万次郎の存在をすでに知っていました。阿部は、大槻のすすめに応じて、土佐の江戸藩邸を通じて、万次郎に出府するように命じます。
土佐藩では、万次郎の身分を徒士格に昇格させたうえで、江戸に向かわせます。万次郎は8月1日に土佐をたち、約1カ月かかって江戸に入りました。むろん、初めての江戸の町でした。
そして、万次郎は、江戸城に召しだされ、阿部正弘らにアメリカという国について、さまざまな質問を受けました。そして、万次郎は、アメリカは広大な国であり、日本に対して領土的な野心は抱いていないこと、また開国の必要性について話したとみられます。

