「中浜」なのに「ジョン万次郎」と呼ばれた理由

阿部らは万次郎の能力を高く評価し、この時点では、ペリーが翌年、再来航したときには通訳に起用することも考えていたようです。当時、日本にはオランダ語の通訳はいましたが、英語のできる者は万次郎以外にはいなかったからです。

そして、万次郎は、切米二十俵、二人扶持という微禄ながら、直参旗本に取り立てられました。そして、これを機会に故郷の地名から「中浜万次郎」と名乗るようになります。

なお、万次郎は、米国の人々からは「ジョン・マン」の愛称で呼ばれ、「ジョン万次郎」という名は『ジョン万次郎漂流記』(井伏鱒二著・昭和12年)で用いられ、その後広まったものです。

米国人からは「ジョン・マン」と呼ばれていた「中浜万次郎」
米国人からは「ジョン・マン」と呼ばれていた「中浜万次郎」(写真=ミリセント図書館/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

万次郎の通訳起用問題に話を戻すと、その後、水戸の徳川斉昭なりあきらが万次郎は米国に偏向しているのではないかという危惧を抱き、万次郎を通訳として起用する案に難色を示します。

阿部は、その御三家からの声をおさえることができず、結局、万次郎は、翌年のペリー来航時、ペリーとの直接交渉の場には同席できませんでした。万次郎は、通訳として活躍する機会がないまま、日米和親条約の交渉からははずされる形になったのです。

一方、この時期、万次郎は「江戸の父」ともいえる人物に身柄を預けられていました。韮山にらやま代官の江川太郎左衛門です。

江川はこの時期、最高級の能力をもつ技術官僚であり、知識人であり、外交的には開明派でありました。万次郎は、江川の本所の屋敷に住み込みながら、江川の書生、あるいは秘書的な仕事をしながら、さまざまなことを学んでいきます。

幕府に対する万次郎の提言

そして、この本所時代の安政元(1854)年2月、万次郎は最初の結婚をしています。万次郎が初めて迎えた妻は、江川邸の近くに住む剣術師範、団野源之進の二女お鉄でした。

源之進は一時、万次郎の護衛をしていたこともあった剣客で、お鉄はその娘らしく、元気で明るい女性でした。

二人は江川の仲人によって結ばれ、江川の屋敷内で暮らし、安政4(1857)年には、長男の東一郎が誕生します。東一郎は後に医師となり、初代東京衛生試験所長、東京医師会長などを歴任しました。

その後、万次郎は、最初の結婚を含めて3度結婚しています。最初の妻のお鉄とは死別、鉄は当時、江戸で流行していたハシカで亡くなったとみられます。2人目の妻とは離別し、後に3人目の妻を迎えました。

一方、仕事では、万次郎は20代の後半、洋式帆船の建造指導、洋書の翻訳などにあたり、30歳のとき、幕府の軍艦操練所の教授に迎えられます。

操練所では、航海技術、船舶の建造などの指導にあたり、後に知識人、技術者として活躍する大鳥圭介、箕作麟祥みつくりりんしょうら大勢の俊英を育てました。

また、万次郎は、この時期から日本でも本格的な捕鯨産業を興すことが必要だと幕府の上層部に建白していました。捕鯨を行えば、利益をあげながら、航海・造船技術を高めていくことができると考えたからです。