日本本土への奇襲爆撃「ドーリットル空襲」では、何が起きていたのか。作家で江戸歩き案内人の黒田涼さんは「2番機は荒川区の尾久付近を爆撃し10人が死亡、47人が負傷した。付近にあった家は直撃で6人が死亡した。この際に亡くなった母子の写真を見たことがあるが、子と母が焼けこげて一体化し、見分けもつかなった」という――。
※本稿は、黒田涼『東京ダークツーリズム 江戸から現代へ、惨禍の「悲業城市」をたどる』(笠間書院)の一部を再編集したものです。
ドーリットル空襲で空母ホーネットから発艦するB-25爆撃機(写真=USAAF/U.S. Air Force photo 020930-O-9999G-008/PD US Air Force/Wikimedia Commons)
空襲初死者は葛飾区の中1の少年
葛飾区の水元公園近くに区立水元小学校(葛飾区水元4丁目)がある。その敷地に、外からもよく見える白く可愛らしいレトロな木造建物が建つ。
1925年に建てられた旧校舎で、貴重な建築物ということで保存されている。残念ながら耐震性に問題があり、内部を見ることはできない。
ここで1942年4月18日、当時の水元国民学校高等科1年生(現在の中1)の石出巳之助君が米軍機の銃撃を受けて亡くなった。有名な「ドーリットル空襲」によるもので、本土での民間人最初の犠牲者となった。
日米戦争の冒頭、日本は真珠湾を奇襲して大戦果を挙げ、アメリカは屈辱を味わった。その報復としてアメリカは日本に衝撃を与える作戦を練る。それが「ドーリットル空襲」と呼ばれる日本本土への奇襲爆撃で、指揮官がジミー・ドーリットル中佐だった。
アメリカは、陸軍の大型爆撃機を空母に載せ日本近海に接近、各地を爆撃する奇抜な作戦を立てた。爆撃機発艦後、空母は直ちに帰還し、爆撃機は日本を横断して同盟国である中国に着陸する計画だった。
