戦争に予定通りなどない
ドーリットル隊はもちろん軍事施設を目標としていた。しかし、ここで紹介する限り、犠牲になったのは子供や女性など民間人の弱い者ばかり。他の機も大混乱で、まともに戦果を挙げた例はほとんどない。
混乱の中で、手ぶらで帰るよりはと爆弾を投下し機銃掃射を仕掛けている。戦争に予定通りなどない。常に混乱と想定外が起きる。近年でさえ、世界一の戦争技術を誇るアメリカは、軍事施設と小学校を誤認して百数十人もの子供を殺している。
ドーリットル空襲ののち間は空いたが、1944年にサイパン島が陥落し、東京がB29の航続半径内に入ってからは、激しい空襲が始まった。その惨劇場所は都内の至る所にあり、全てを紹介することはできない。現地に何かが残るものを中心に、ごくごく一部を紹介する。
「背中の子に火がついても気が付かない」
江東区北砂1丁目の「東京大空襲・戦災資料センター」は最寄りの都営地下鉄西大島駅、住吉駅からは徒歩20分と遠く、赤いレンガ壁の3階建ての建物はこぢんまりとしている。ここは民間の施設なのだ。
1970年、作家の早乙女勝元さんらが「東京空襲を記録する会」を結成、東京都の支援を受け、体験記や各種資料を網羅した『東京大空襲・戦災誌』全五巻を発刊し、さらに東京都に「平和記念館(仮称)」建設を要望した。
都は1992年に建設を決定したが、表向き財政難を理由に、実際には戦争責任をどう捉えるかの党派間の対立が解消せず、1999年に建設を凍結して現在に至っている。これを受けて、「記録する会」などが中心となって2002年に開館したのがこのセンターだ。
ここで空襲時に8歳だった女性の体験談をうかがったことがある。
「火の粉が飛ぶと言いますが、粉なんてもんじゃない。衣服、家具、畳などがどんどん飛んでくる。小さい子供たちを連れた母親が背中に子供を背負って逃げていましたが、背中の子に火がついている。でも両手を他の子と繫いでいて気が付かない」
「荷馬車で逃げてきた人がいましたが、馬が突然立ち往生して動かなくなりました。やがて荷物に火がつき、馬も立ち止まったまま燃え出し、荷馬車の人も逃げずにそのまま一緒に燃えていました」

