豪商と組んで、捕鯨業にチャレンジするが
その万次郎の提言に勘定奉行の一人が理解を示してくれ、箱館の松前藩に捕鯨を指導するため、蝦夷地に出向いたこともありました。
その後、万次郎は豪商などと組んで、捕鯨業を興すことにチャレンジしたこともありますが、結局は時期尚早だったのでしょう。捕鯨の事業化はうまく進みませんでした。
万次郎がそうした仕事に取り組んでいる時期は、幕末の政治情勢が風雲急を告げている時代でもありました。異人斬りが横行したり、攘夷派が開明派らを襲う天誅の時代でした。
そのなか、万次郎も、攘夷派とみられる者の襲撃を2度受けています。そして、一度は、江川がつけてくれた護衛、後に義父となる団野源之進によって助けられました。
後には、勝海舟がつけてくれた護衛、土佐の人斬り以蔵こと岡田以蔵によって、危ないところを助けられています。万次郎自身も拳銃を携帯している時期もありましたが、結局、自ら発砲することはなかったようです。
そして再びアメリカへ
万次郎は、万延元(1860)年の初め、軍艦操練所の総督だった木村摂津守から、アメリカに同行することを求められます。
日米修好通商条約の批准書を交換するため、小栗忠順ら日本の使節団(ポーハタン号に乗船)に護衛艦として同行する咸臨丸に通訳(通弁方主務)として同乗することを命じられたのでした。
咸臨丸は、全長49.7メートルの蒸気船でした。艦長は軍艦操練所頭取の勝海舟で、日本人乗組員は96人、これにアメリカ海軍の11人が乗船していました。
アメリカの測量船が横浜沖で座礁し、ブルック大尉ら21名が日本に滞在中で、そのうちの11人が咸臨丸で帰国することになったのです。
それは、木村がかけた「保険」といえました。木村は日本人だけで太平洋を初横断することに危険を感じ、アメリカと交渉して米海軍の兵に乗船を求めたのでした。
この航海は、艦長の勝海舟をはじめ、日本人だけで達成したように思っている方もいるかもしれませんが、事実は違いました。
往路は荒天が続いたため、勝らはたいてい船酔いで船室で寝ていて、じっさいに船を動かしたのは、同乗したアメリカ海軍のブルック大尉とその部下たちでした。
ブルック大尉はきわめて優秀な船乗りで、後にアメリカ海軍士官学校の教授に就任しています。万次郎も、捕鯨船で一等航海士を務めた経験を生かし、日本人士官に代わって、ブルック大尉の右腕として補佐しました。

