鳥羽・伏見の戦いで幕府側に勝算はあったのか。勘定奉行・小栗忠順が描いていた迎撃計画は後にそれを知った新政府軍の指導者・大村益次郎を震撼させたという。日本史深掘り講座が編集した『小栗忠順とジョン万次郎 同年<1827>生まれの二人が見た二つの日本』(青春出版社)より、紹介する――。(第1回)
東善寺(高崎市倉渕)に建つ小栗忠順の胸像
東善寺(高崎市倉渕)に建つ小栗忠順の胸像(写真=シン日本紀行/CC-Zero/Wikimedia Commons)

大政奉還策を危険シナリオとみていた

慶応年間、小栗は、おもに幕府の軍事力強化と、財政の建て直しに尽力していました。

軍事面では、小栗は、幕府陸軍をフランス軍人に指導させることを企図し、慶応2年末には、フランス軍事顧問団が訓練を開始します。

また、フランスに大量の武器を発注、大砲90門、小銃2万5000丁などを調達しています。財政面では、日本初の株式会社だった「兵庫商社」を設立したのは、この時期のことです。

小栗がそうした幕府の建て直しに取り組むさなか、徳川慶喜が慶応3年10月14日、朝廷に大政を奉還します。小栗は、慶喜の大政奉還策を危険なシナリオとみていたようです。

大政奉還は、一言でいえば、政権は朝廷に返上するが、徳川家は残そうとする策です。小栗はそのような中途半端な策は敵につけいる隙を与えるだけとみていたふしがあります。

小栗は、幕府の兵力や財政力を徹底強化し、幕府の維持が必要と考えていたとみられます。

そして、大政奉還から約3カ月間、京都・大坂の徳川慶喜と薩長勢力の政治的暗闘が続き、慶喜は政争に敗れたうえ、鳥羽・伏見の戦いにも敗れて、江戸城に逃げ帰ってきます。

そして、慶応4年1月12日から、江戸城で評定が行われます。小栗は、この時点でも明確な戦争計画を描き、まだ勝算は十分にあるとみていました。