登城していたが、突然罷免を言い渡され

じっさい、彼の新政府軍に対する迎撃計画は、後にそれを知った新政府軍の指導者・大村益次郎を震撼させるものでした。大村は、「もし、慶喜が、小栗の策を採用していれば、自分の首はなかっただろう」と語ったと伝えられています。

小栗の作戦は、新政府軍を東海道で挟撃する作戦でした。東海道を進軍してくる新政府軍をまずは関東まで引きつけたうえで、優勢な幕府艦隊で駿河湾から艦砲射撃、新政府軍を東西に分断、江戸に近づいている新政府軍の部隊を孤立させるというものでした。

小栗忠順 1827~1868
小栗忠順 1827~1868(写真=国立国会図書館/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)

さらには、艦隊で神戸を襲い、がら空きに近い京都を狙えば、形勢を一気に逆転できると、小栗はみていたのです。

そして、小栗は、1月13日、14日の評定で、徹底抗戦を主張します。しかし、小栗は、恭順論の勝海舟らと対立、慶喜は小栗の策を退けて海舟の恭順策をとります。

そして、1月15日、登城していた小栗は、突然罷免ひめんを言い渡されました。老中に呼び出され、勘定奉行・陸軍奉行の兼職を解任されたのです。むろん、徳川慶喜の意を受けた人事でした。こうして、小栗は政治生命を絶たれることになったのです。

幕府の幹部のなかで孤立した理由

小栗が、徳川幕府の最終段階で解任されたのは、徹底抗戦を貫こうとした軍事方針が、徳川慶喜の恭順方針と食い違ったためです。

ただ、それ以前から、小栗は政治的に孤立しやすいところがありました。小栗は、これまで述べてきたように、きわめて理知的で、信念を曲げない人物であり、それが周囲から浮き上がる原因になっていました。

そして、横須賀製鉄所建設などの近代化政策は、保守的な幕閣や幕臣たちから、反感や警戒を買っていました。そうした思い、嫉妬や怨念が最終段階で噴き出したともいえます。

とりわけ、最終段階で、小栗にとって最も手強い反対者となったのは、勝海舟でした。小栗と勝は、ともに幕府を代表する開明派であり、幕府の近代化を目指しましたが、その手法や政治路線は違っていました。

小栗とともに幕府を代表する開明派であった勝海舟
小栗とともに幕府を代表する開明派であった勝海舟(写真=東洋文化協会『幕末・明治・大正回顧八十年史』/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)

小栗がフランスの支援を受けて、幕府を中心とした中央集権国家を築こうとしたのに対し、勝は幕府単独では国家を維持できないと、諸藩との協力を目指しました。

また、小栗が推進した横須賀製鉄所建設に関しても、勝は「今は軍艦を買うときであり、造る時期ではない」と、終始批判的な態度をとっていました。

小栗と勝は、ことあるごとに意見が対立し、最終局面でも、小栗が解任される一方、勝は慶喜の意を受けて薩長との折衝役を務めることになったのです。