そして悲劇の最期をむかえた
罷免後、小栗は、江戸を引き払って、知行地の上州権田村へ移ることに決めます。
小栗の知行地は関東各地にあったのですが、村人との交流が深かった権田村を選んだとみられます。
小栗は1月28日、権田村への土着願書を提出し、翌日許されます。そして、身辺を整理し、2月28日、江戸を出発しました。妻の道子、母の邦子、養子の忠道らが同行しました。3月1日、領地である上野国群馬郡権田村に到着します。
小栗が領地に帰った時期、上野国一帯では一揆が多発し、一揆勢は小栗の領地も狙っていました。小栗が幕府の勘定奉行を長く務めていたこともあって、小栗が幕府の埋蔵金を秘匿していると噂がすでに立っていたのです。
そして、小栗が権田村に着いた翌日、打ち壊しを行う暴徒が隣村まで来ているという知らせを耳にします。小栗はわずかな手勢を率いて、これを撃退します。
参加者を出した近隣の村役人らが詫びにやってくると、小栗は詫びを受け入れ、近隣は平穏を取り戻しました。
ただ、その後、小栗が新政府軍に捕らえられ、斬首されたのは、敗れた一揆側が小栗に関する誹謗中傷を広めたという話が残っています。
そして、小栗は、斬首されるまでの2カ月ほどの短い間、東善寺を拠点にして、村の将来のため、農地開拓や用水路などの今でいうインフラ整備を構想したり、村の子供たちに読み書きを教えたりしながら、静かな日々を送っていました。
取り調べもしないまま斬首
その一方、新政府軍から疑われてもおかしくはない行動をとってはいました。小栗は領地に新たに館を築いて、農民らに戦闘訓練を施そうとしていたのです。
小栗にすれば、世の中がさらに乱れたとき、自らの領地を守るためだったのかもしれませんが、それは新政府軍(東山道鎮撫総督府)には挑発的な行動にも見えたのでしょう。
新政府軍は、そうした小栗の行動を監視し、新政府軍の軍監らは、近隣の高崎、安中、吉井の三藩に対して、小栗の追討を命じます。三藩の使者は閏4月1日、権田村を訪れます。
その後、三藩の使者は、総督府に「小栗に反逆の意図は見られない」と報告しますが、総督府は、小栗を捕らえよ、と命じます。総督府のこの件の責任者は、長州の原保太郎と土佐の豊永貫一郎で、原は22歳、豊永は18歳の若者でした。
三藩は、その命に従い、小栗とその配下の者を屯所へ連行します。そして、取り調べもしないまま、翌日、小栗らを水沼川原に引き立て、斬首しました。小栗、享年42。

