小栗刑死後の小栗家
小栗が処刑されると、その領地や小栗の屋敷、家財道具などは、新政府軍に差し押さえられました。
小栗の家族、妻の道子や小栗の母は、差し押さえの直前、権田村から、会津へ逃れました。当時、道子は妊娠中で、会津への逃亡中、長女、国子が生まれています。
彼女は、後に小栗家再興のうえで重要な役割を果たします。明治維新後、前述の栗本鋤雲らの尽力によって、明治18(1885)年、小栗家の家名の再興が許されます。国子は婿を迎え、小栗の血筋は今も続いています。
小栗の墓は、高崎市倉渕町(旧権田村)の東善寺にあり、境内には遺品を展示する資料館も併設されています。また、同町には、小栗の顕彰碑が建てられています。
小栗は処刑後、長い間「逆賊」として扱われていましたが、処刑から64年後の昭和7年、地元有志による寄付によって、その顕彰碑が建立されました。碑文には、「偉人小栗上野介罪なくして此所に斬らる」と刻まれています。
また、毎年、「小栗まつり」が開かれるなど、小栗は今も地域の人々や子孫によって手厚く供養されています。
小栗の埋蔵金伝説の噂の出どころ
今も「徳川埋蔵金伝説」が、ときおりマスコミをにぎわせます。なかでも最も有名なのは、赤城山に埋められたとされる360万両ともいわれる御用金です。赤城山埋蔵金の存在がクローズアップされたのは、明治になってからのことでした。
慶応4(1868)年4月、江戸城が無血開城されたとき、財政難にあえいでいた新政府は、幕府御用金を軍資金として当て込んでいました。ところが、江戸城の金蔵は空でした。新政府は幕府が隠したと考え、御用金探しをはじめます。
真っ先に疑われたのは、小栗でした。小栗は最後まで主戦論を唱えていました。そのため、小栗は幕府の御用金を隠し持って逃げたという流言が広まったのです。
その後、小栗が幕府の高官のなかで、ただ一人、斬首されたこともあって、それは小栗が御用金を隠したからに違いないと噂されるようになりました。
さらに、「利根川をさかのぼってきた船から、何かが赤城山へ運びこまれるのを見た」と証言する人が現れ、また小栗の下で、勘定吟味役を務めた中島蔵人が、死ぬ直前、「赤城山麓に、小栗上野介の指揮で、幕府の御用金360万両を埋めた」と言い残したという話などが重なって、赤城山中に御用金が埋められていると信じる人が増え、発掘する人も現れました。
ところが、赤城山での発掘調査は失敗続きだったので、その後、赤城山説はオトリであって、実際には日光や妙義山、榛名山、各地の東照宮などに隠されているといったさまざまな説が流れるようになりました。
ただ、当時の幕府の金蔵はすでにからっぽで、埋蔵金にする資金などなかったというのが、歴史上の通説となっています。
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