徳川慶喜はなぜ鳥羽・伏見の戦いの直後に大坂城を捨てて江戸へ逃げたのか。旧幕府軍は、最新銃器で武装した旧幕兵を温存していたため、態勢を立て直せば、もう一戦する力は十分に残っていたという。日本史深掘り講座が編集した『小栗忠順とジョン万次郎 同年<1827>生まれの二人が見た二つの日本』(青春出版社)より、紹介する――。(第3回)
大阪城
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「領地を返せ」にしたたかに対応した慶喜

王政復古のクーデターによって、徳川慶喜の新政権構想は崩れたわけですが、それでも慶喜は政権復帰をあきらめたわけではありませんでした。鳥羽伏見の戦いが始まるまでの3週間ほどの間、依然、政治戦が続きます。

新政府側は、まず小御所会議で決まった「辞官納地」を慶喜に命じるため、議定の松平慶永と徳川慶勝が二条城へ出向き、慶喜に対して、官位を辞退し、領地を返納するよう伝えます。

慶喜は、これにしたたかに対応します。命令に異議はないと、恭順の姿勢を示しながらも、旗本の興奮を抑えるため、しばらく時間がほしいと答え、実質的には拒否の姿勢を明らかにしたのです。

松平慶永と徳川慶勝は、新政府のなかでは温和派であり、内心、慶喜を救いたいと考えていました。彼らは、それ以上何も言わず、帰っていきます。そして、三職会議で慶喜の回答が報告され、うやむやのうちに慶喜の要求が承認されました。

さらに、温和派の山内容堂は、「一日も早く諸侯会議を開くべきだ」と提案。実質的に慶喜を首班とする政権構想を温めていました。

慶喜自身は、王政復古の大号令から4日後の慶応3(1867)年12月13日、会津、桑名の両藩とともに、二条城から大坂城へ移りました。