鳥羽・伏見の戦いで幕府方が敗れた事情
旧幕府軍は、翌慶応4(1868)年正月2日、約1万5000の軍勢で大坂城を進発します。
京都方面に向かい、淀に到着すると、そこを本営として全軍を二分し、会津兵を中心とする隊は伏見から、桑名を主体とする隊は鳥羽から進軍をはじます。翌朝には、鳥羽と伏見の二方面から京都に攻め入る作戦でした。
一方、新政府軍は、薩摩は、鳥羽方面から攻め上る桑名などを迎え撃ち、長州を主体にした軍は、伏見街道を進んでくる会津などの本隊を迎撃する態勢を整えていました。
この時点では、戦争を待ち望んでいた西郷隆盛にも、確固とした勝算はありませんでした。西郷は、一戦して敗れれば、天皇を奉じて京都を脱出、山陰に逃げ延びる覚悟を決めていたほどです。
1月3日、旧幕府軍は鳥羽まで北上、午前9時すぎ、待ち構えていた薩摩軍に対し、朝廷から入京の許可を得たいと申し出ます。薩摩側はむろんいい回答はせず、長々と談判する状態となります。
この時点で、旧幕府方にどれだけの戦意があったか疑問です。午後5時になって、ようやく旧幕府方は強硬突破を宣言するものの、そのとき旧幕府方を率いる滝川具挙は兵らに弾丸を込める準備さえ、させていませんでした。
旧幕府方に戦闘姿勢がない状態にあって、薩摩側は大砲を放ちます。これが戦争の初弾となり、滝川具挙の付近に命中し、滝川は落馬、指令機能が麻痺します。続く薩摩側の銃撃の前に、旧幕府方は四散しました。
岩倉具視の指示で作られていた錦旗
鳥羽に轟いた砲声を耳にして、伏見でも戦いがはじまります。伏見の戦いは、おもに会津兵対長州兵で大激戦となりました。
旧幕府方は伏見奉行所を拠点とし、長州はそれに激しい攻撃を加えますが、会津も戦意、戦闘力が高く、この方面では、長州は会津を押し切れませんでした。
翌1月4日は、旧幕府方が反撃に出ます。大垣兵の奮闘もあって、富森方面では一時、薩長軍を押し戻します。戦いは、一時はどちらに転んでもおかしくない混沌とした情勢になりました。
ところが、この日の午後2時頃になって、錦の御旗が戦場にひるがえります。これで、薩長は官軍となり、旧幕府方は賊軍の立場に陥りました。
この錦旗は、岩倉具視の指示で、国学者の玉松操が『皇旗考』という本を参考に作っていたものでした。錦旗が翻ったことで、新政府軍は、官軍というお墨付きを得たことになり、士気がさらに上がります。旧幕府側は、兵士の士気が一気に低下、寝返りが相次ぐことになりました。

